百姓伝道者ハウゲの伝記 第2部 4〜5章
第2部 ノルウェーのリバイバル説教者
第4章 ハウゲの伝道始まる 1796〜1800年
文書伝道と説教
経験は少なく、あまり本も読んでいない主の僕ハウゲは、彼の最初の著書を印刷に附すためにオスロへ行く途中であった。こうして彼にとって最も実り多き次の八年の働きが始まった。永い田舎道と印刷屋との間の往復、それが当時のハウゲの活動の姿であった。おそらくハウゲは一万マイルからの道を、徒歩で、或いは、スキーによって踏破した筈だと言われている。彼は生涯の間に三十三冊の書物を書いているが、そのうちの十九冊は1796年から1804年にわたる彼が精力を集中した八カ年の間に書かれたものである。彼の肉体的精力と組織的手腕は、彼が成就した事業によって明らかであるが、それは全く驚嘆に価するものであった。彼をそんな風に駆り立てたてたものは何か、それは彼がほんものの聖徒であったからである。
ハウゲが最初にオスロへ旅立った時の思い出話には、興味と同情をそそられるものがある。彼がやっとの思いでジェンスベルグ(JensBerg)の印刷所へ原稿を持ちこみ得たのは、彼に勇気と信仰があったからである。最初、彼が原稿を紛失した時、神は彼の著作を喜納なさらなかった結果だと、彼は受け取った。彼は踵をかえして家路にもどる途中一友人を訪れることにした。そこで彼は、彼が落とした原稿を拾ってくれた男に出会った。この奇遇に力を得た彼は、喜び勇んでもういちどオスロへ引きかえした。その出発前に、彼は路傍に跪ずいて神に旅路の平安を祈っている。彼が祈り終って立ち上がると、そこにはひとりの見知らぬ男が、口を開き、耳をそばだて、好奇の目を光らせながらハウゲの行動を見守っていた。それから二人は連れ立って歩き出した。ハウゲは彼が狂人でも病人でもないことを納得させただけでなく、別れる前に、その男をして魂を主にささげさせることに成功した。
オスロの塔が見え始めた時、ハウゲは突然混乱をし気を失いそうになった、彼のうちなる懼れと疑いとが、騒々しい声をあげ始めたからである。それらの声は計画を全部放棄して家へ帰れと彼に迫った。一農夫の子が、牧師を批判した書物を発表するなんて、何という傲慢な態度だ。ハウゲは祈りのうちにこの問題と取り組み、主の前に、彼の弱さと、絶望的なためらいをざんげして泣いた。そして永い自己克服の闘いの後で、ようやく心中に平和と確信をとり戻して、著書出版に踏み切ったのである。
1796年の秋、ハウゲは再びオスロへ姿を現した。そして再び原稿を印刷屋へ持って行った。この時の書物は、彼が農業に従事しながら僅かな余暇に書きあげたものである。その標題は「神の知恵についての一試案」であった。これは、旧著の「この世の愚行についての瞑想」の主題に対しての補足として書かれたものであった。その内容は、秩序と読み易い点では、さきの著書には及ばなかったが、回心と新生を、彼はその中で力強く説いている。それで読者はハウゲの挑戦を感じとらないわけにはいかないであろう。悪の力は精神界と物質界の両面から、人間の心を脅かしつづけている。神の如くに生きる道はきびしい。誘惑と偽りの予言者は、われわれの四方を取り巻いている。救いの道は、神の恩寵を通し、罪を承認することを通して、真の改心と、神の意志への服従によってのみ見出される、云々。
この書物の外に、ハウゲは「主の祈り」についての注釈を自ら書いて出版にまわした。第三番目の著書は「キリスト者の為の指導書」であるが、それは間もなくドイツ語に訳され、更にデンマ-ク語にも訳出された。「福音的生活の基準」というのがそれである。
ハウゲは聖なる生活の実践的訓練を重視していたので、聖潔を強調した同じようなトラクトを二冊、後になってから書いている。彼が選ぶ問題が、いつもそのようなものであり、聖化、日毎の罪との闘い、神のみ言の研究、そして祈りといったような字句の下に、彼は必ず墨線をひいている。「どんなことがあっても、諸君は次の三つのこと、『神の言から、イエス・キリストに対する信仰から、神に対するまことの恐れから』逃避してはならない」、と彼は説く。
ハウゲは三ヵ月間、オスロに滞在して、印刷と製本の技術を学んだ。彼はクリスマス前に家に帰り、彼が印刷した書物の製本と配布に急がしく働いた。彼はまた、彼の熱意と精力を伝道に傾むけた、それは彼と彼の同労者の性格を表すものとなった。彼は家庭集会を盛んにひらいた。さきにも言ったように、彼の最初の集会は、彼の家でひらかれた。それがチューネ教区の全体に信仰復興を起こす発火点となったのである。一農夫の子が、立派な説教をするという噂が拡がった、それから後、彼は他の家で開かれる家庭集会に招かれるようになった。
これらの集会の一例としてグラーラム(GRAALUM)の農場で起こったことを記そう。ハウゲと彼を招待した主客は教区長ウールダール(URDAHL)を集会に招待しておくだけの注意を怠らなかった。彼はやってきたが、その地方の司法官を連れてきた。客間はハウゲが語る言葉に、熱心に聞き入る人々で一杯であった。ハウゲが説教を終った時ウールダールは立ち上って、この種の集会は、1741年にデンマーク王によって発令された法令、即ちすべての小集会は、その地区の牧師によって管理されねばならないという法令に違反するものだと告発した。ハウゲは法令の写しをもっていたが、それを読みあげることは許されなかった。ハウゲはそこで、彼の説教の中に間違った箇所があったかどうかとウールダールに質問したが、それに対して彼は答えなかった。集会は中止され、農夫達は激昂したが、しかしながらかかる不当で強制的な法律の適用に対する抗議はむだに終った。
法律――文字と霊と
1741年に発令された集会管理の法令は、ハウゲをいく度もいく度も困らせた。それはデンマークとノルウェーの国教に属するルター派の教会を教派的対立感情の侵入から守るために、特にヘルンフートのモラビア兄弟団等、ツインツェンドルフ伯の保護下にあった敬虔主義の宗教団体の侵入を防ぐことを目的とする法令であった。1730年から1746年にわたってノルウェーに君臨した敬虔なクリスチャン六世は、ツインツェンドルフ伯を非常に尊敬していたが、ヘルンフート派への改宗者が跡をたたないという同派の牧師からの報告が王の許へ届いた時、王は1741年の集会管理の法令に署名することを承諾したのであった。
ハウゲはこの法令を常識的に解釈し、時代遅れのものだと考えていた。彼は注意深く同法令を読んで、その目的と精神は、神に属する人々の集会の権利を守るものだと確信していた。彼はこの確信をグラーラムで披歴する心の準備をしていた。「自分自身が、また他人が啓発され、人間的に完成されることに純粋な関心を抱く者が、馬鹿にされたり、迫害されたりすることがあってはならない」と、その法令の一節には書いてあった。今ひとつ、宗教上の集会を妨害する目的で、集会の行われている場所の近くで、騒動を起こす者がある場合に、その者は、その節によって罰せられることになっていた。
ただし同法令の第十六條には「男子であれ女子であれ、単独または同伴者と共に、国内を旅行し、集会を開くことは禁ぜられている」と明示されていた。それは昔ながらの解釈の問題である。ハウゲは自分自身を単なるクリスチャンの一農夫で、同胞の信仰と徳をたてるようにキリストの召命を受けたものだと確信していた。思慮ある人間で、ハウゲのこの考え方に異存をはさむものは殆どあり得ない筈だ。然し、官吏や教職で、ハウゲの説教に反感をもった者は、彼を放浪者と見做していたのである。彼らの見解によれば、そして前記の集会管理法の法文によれば、ハウゲは「神の名を借りて、正常な職業を離れ、神の召命も、按手礼も受けていないくせに自ら教師と名乗り、人々の霊魂を目醒めさせるのだと言って、あちらこちらと放浪して歩く」であったのである。ハウゲが官憲の干渉を受ける度に、後者の解釈がいつも勝利をおさめたのは、御時世というものであった。
ここで農民と官辺の間に緊張が生じ、それが重大な役割を演じることになった。即ち、ノルウェー国内の対照的な二つの社会が、集会管理法をめぐって対立することになった。アイナー・モラン(EINARMOLLAND)教授は、こんな風にその事を説明している。
ここでわれわれは、初めて、国民全体の覚醒をうながすことになるであろう特性をもった、社会内部の対立に直面する。国教教会の法令と平信徒の説教家との間に起こった対立は、同時に、農民と官吏との間の対立でもあった。集会管理法をめぐる対立は、即ち社会的対立であった。
この社会的対立感情は、ハウゲと教職者との衝突において、最も鋭く描き出されたいってよい。俗界の権威者、知事、地方司法官等々は、集会管理法を機械的に強制することを常とした。教職の場合はそうではなかった。彼らは伝統と王室の任命によって、彼らの職業的領域に定められていた世界へ、一平信徒がもぐりこんできたという個人的な悪感情を体験していたのである。ハウゲの物語りは、この種の挿話でいっぱいである。
1797年の年が明けて直後のことである。ハウゲはモス(MOSS)、オスロ(OSLO)、ドラムメン(DRAMMEN)へと旅立った。信仰的で信頼の出来る人々と近づきになりたいことと、彼の著書を廣い範囲に売りさばきたかったからであった。路上でも農家でも、彼は彼の心の中で実存として感じていた霊魂の救いに就いて、神の御旨について、どうすればわれわれの生活を秩序あるものにすることが出来るか、地上で幸福で、しかも満足の出来る生活を営み、死後も祝福された生活が許される望みに生きうるにはどうしたらよいかを語るのであった。フレデリクスターにハウゲの幸福を願うひとりの友人がいて、彼に結婚をすすめ、自分の娘を貰ってくれないかと言った。ハウゲはその好意を、感謝したが今の段階において結婚することは、神の命令によって召命にこたえることと矛盾すると考えて断った。
1797年―闘争と入獄
1797年は、廿六才になったばかりのハウゲにとって、多彩な冒険と、霊的な成熟ぶりを見せた年であった。時には、彼から平静を奪うような内面的闘争があって、彼の召命観をにぶらせるものがあった。彼はそれでも男らしく誘惑に立ち向い、彼自身の主観的経験よりも神の言に対する確信に、彼の信仰の錨をおくのであった。しかし彼は、それらの闘争を通過するごとに、より廣い領域にわたって奉仕しなければならないとする、新しい情熱の盛りあがりを感じるのであった。ある日曜日の午後、彼はラケスタット(RAKKESTAD)で四百人の民衆を前に説教をしたことがあった。七月二十七日、―その日は日曜日であったが、彼は母教会の青年達が、訪問中の学校の訓育主任から小教理問答の解説を聞こうとしていた際に、ハウゲは証言のチャンスを求めた。その後、夏になってから、彼の燃え上がる火のような証言に対する重大な応答がオスロフィヨルドの西側にある町々や村々から起こった。
秋になって彼が家に帰った時、そして農場で働き出し、自由な時間には読書するという彼の昔の習慣に帰った。そうしたある日、彼はデンマーク語に訳された「タウラー(TAULER)の回心記」を読んで、彼自身の経験の上により明確な光と、新しい刺激を與えられたと感じた。そして平信徒伝道者として彼がうけた召命とその事業を成就しようと決意した。ストラスブルグ(STRASSBURG)のジョン・タウラーは十四世紀の有名な説教家であった。ところがバーゼル(BASEL)のニコラス(NICOLAS)という一平信徒が、彼のパリサイ的偽善を責め二カ年間説教をやめろと忠告したことがあった。このニコラスの影響でタウラーはその後、全く神に服従する説教者となった。二カ年の反省の後、彼が再び教壇に立った時、その説教は聖霊の油と力にみちあふれていた、聴衆は彼の口から出る神の言の衝撃に打ちのめされて床上にうづくまるほどであった。
ハウゲはこの両者から教訓を学んだ。タウラーの態度から彼が学んだものは、たとえわれわれが神のメッセージを、その時々において確かめることが出来ないとしても、神のために働き、神に奉仕しようとする精神がわれわれのうちにある限り、われわれは「子たる身分を授ける霊」が実在する事実を、確認することが出来るということである。彼はまたタウラーにおいて、彼の説教の本質的な内容に対する確認を見出して喜んだ。タウラーは、信仰者は内なる人の生れ変りの経験と、まっ正直な勤勉さと、単純な信仰がなければならないと説いていた。ワルデンシズ派の一平信徒であったニコラスからは、ハウゲは彼の召命が天的なものであること、従って固守しなければならないという激励を受けた。ニコラスは博学なドミニコ派の修道士を、自己放棄と神への単純な、子供らしい信仰へと、よく導いた。このように十四世紀の一平信徒の働きを祝福し給うた神は、また十八世紀の一平信徒の働きをも祝福し給わない筈はなかった。
フレデリックスターで捕縛
1797年の終りに近いころ、ハウゲは初めて捕縛された。それは十二月二十七日の夜、彼がグレメン(GLEMMEN)で説教中のこと、デンマーク人教区の教区牧師フエアマン(FEIRMANN)によって説教を、中止するように命ぜられた。この時のことを、彼自身語っているが、そこにもその不屈の精神が躍如としている。「人々は私を鳥籠と言われる牢獄の中に放りこんだ、そこで私は讃美歌を歌ったが、聞いていた兵隊達は胸をうたれた」。
二日後、鳥籠から出されたハウゲは、執行吏の取調べを受けた。そして狂信的信仰を人々にすすめて迷惑をかけている男として詰責された。ハウゲは答えた、「私がキリスト者の信仰に従って行動しているということ、人々が彼らの罪深い生活から離れて、償いをしようとしていること、それがどうして迷惑行為になるのでしょうか?」と。ハウゲは直ちにフレデリックスターへ連れ戻され、市の牢獄に監禁された。このニュースは近隣の町や村々へ直ちに伝えられ、人々は、この異常な人物をひと目、見ようとして集まってきた。ハウゲは彼がキリストの福音について説教をしたために捕縛されたんだということを人々に訴えた。そのころハウゲにとって迷惑ないろんな噂が流されていた。彼は木の精を拝んでいるとか、姦通したとか、盗賊であるとか、酔っぱらいであるとか、淫乱な悪徳を働く男で、また奇跡を行う力を持つ男だとも伝えられていた。
フエイアマン牧師が、またハウゲを告訴したので、彼は取調べられることになった。彼が検挙されその説教の内容を聞かれた時、彼は次のように答えている。「私はわれわれキリスト者の信仰について語っただけです。神の憎み給うもろもろの業を捨てて、よきことのために熱心に働くように」と。「なぜお前は資格もないのに教師を自称するのか?」との問いに対しては、「何故なら、聖書は私達に、人々の徳をたてるようにと教えているから」と答えている。
釈放と推薦
この時の取調べの結果彼は、地区の政庁へ送られたが、長官から、ハウゲが自分の家庭にとどまり、自分の教区から一歩も足を踏み出さないという約束をするなら、釈放してもよろしいと回答してきた。ハウゲにしてみれば、まず神の律法を遂行して、王の命令は後廻しにしたいところだったが、官憲は、神の命ずるままに、邪悪を罰し、善を保護することが彼らの役目だと考えていた。
しばらくの後ハウゲに対する、無条件釈放の通知がきた。ハウゲはピリピにおける使徒パウロのことを思い起こして、彼を捕え入獄せしめた責任者フエイアマンに対して、「汝、みずからここに来て私を連れ出すべきである」と言った。しかし、フエイアマンは、彼の要求に応じず、ハウゲはフレデリックスターの牢獄を出てチューネの自家へ帰った。
ハウゲは帰省すると同時に、また次の書物を出そうとして執筆に余念がなかった、そのころ地区の長官、アンドレアス・ホックガード(ANDREASHOKGAARD)は、グレンメン(GLEMMEN)に住む二人の男から、ハウゲに抗議する書簡を受取った。それはオスロ教区の監督宛てのもので、ホックガードに托送を依頼したものであった。地区の長官はハウゲの支持者ではなく、彼の説教を支離滅裂でくだらぬものだと見なしていた。しかし彼は、自分の行政管区をくまなく巡回中、彼はハウゲに対するどんな不平をも耳にしたことがなかったので、グレンメンの居住者から受取った訴状を、オスロの監督に送るに際して、彼自身の意見書を添えた。そのなかには次のようなことが書かれている。
農夫達の間で尊敬されていた家長達が、ハンスハウゲの説教を聞き始めてから、みんな精神的に大いに裨益されたと言っている。ハウゲは人を怠惰に導くようなことを言ったことはないし、彼の説教を聞いたために、彼らが損をしたことはなかった。農民達はカルタ遊びをしたり、酒を飲んだりするよりも、休みの日にハウゲの集会に出ることを有意義なことだと考えていた。ハウゲの伝道集会があちこちで開かれるようになってから、どの地区でも、喧嘩と仲間割れが少なくなったと、彼らは異口同音に語っている、と。
文書による証言
オスロ地区の監督が何の動きも示さなかったので、ハウゲは邪魔されることなく著書の脱稿に精励することが出来た。彼はその書物の中で、彼がフレデリックスターで逮捕投獄された前後の出来ごとを説明をしている。彼は、自分の無罪をハッキリさせたかったし、この最初の投獄で、彼が官庁と衝突はしたものの、その理由は、彼が真理を代弁したためであったことを証明するつもりであった。彼はその著書の表題を「救霊問題に関する真理についての確認」と名づけた。彼はその序文の中で、牢獄の思い出を、読者に語っている。第一部は、黙示録七章の解説である。彼は同章一節の四人目の御使について彼の解釈を述べ、召命の名に価しない生活をしている説教者を、はげしく非難している。第四の悪の使は神の言を、恥ずべき利得のために説く者である。彼は抗争を好み、欲に目がくらみ、キリスト者であろうとしたことがなく、悪魔にまどわされているものである、とした。
聖句の引用で、堅固な布陣をしいた上に、なおハウゲはルターの言葉を動員して、不信仰な教職者を次のような言葉で攻撃している。「凡俗な牧師は、神がつくり給ひし地上で見られる最悪の被造物である」と。彼はルターの言葉を再び引用して「信仰者の義務は、イエスについて証言することである」と言っている。「ルターはこう言っている、イエスが父なる神の前で、我々のために証言していて下さる限り、われわれもまた此の世でイエスについての証言をするのが当然であろう」と。イエスの血による罪人の赦しの次に尊いことは、イエスの名を公衆の前で告白することである。われわれが真実な信仰をもち、私生活の中で、神々しく、生きるならば、悪魔はわれわれを激しく攻撃することが出来ない。然しわれわれがこのような生き方を、他の人々の間に拡げて行く時、そしてそれが彼らのためになるとき、悪魔は必死になって怒り出すのである。ハウゲは、「救霊問題に関する真理についての確認」の第二部でマタイによる福音書五章1〜12節の聖句を、彼自身が通過した捕縛と訊問の経験から目を開かれた者としての註釈を試み、「義のために迫害されてきた人達」への約束を、彼自身に対するイエスの個人的な言葉であるとさえ言い切っている。とは言え、彼は謙遜であったので、「迫害されているということのために、自らを慰めたり、神への愛からでなく、自負心から、あえて迫害をうけようとすることは間違いだと、自身に対し、また読者に対して戒告する」とも言っている。
ハウゲは「SomeRefutation誤解を論破する」という一文の中で、非常に有益な文章を書いている。彼はまず反論を掲げ、それに対する論駁を次に記している。たとえばこんな風に、「反論第二、われわれは何も悪いことをしていないから、そしてつとめて善いことをしているから神の子達の中に数えられている」、答「あの愚かな五人の娘のように自らをだましてはならない。彼女らは賢い娘達の仲間であったが、ランプとともに油を携えることを忘れていた。あなた方は、何も悪いことはしていないというが、それは気の毒なことだ。あなた方は人間の自己欺瞞の深さを知っていない、それは癒し難い人間の弱点である。主はそのことをよく御存知であり、またそのような弱さを癒しうる方である。彼に全身全霊をささげなさい」。
道を指し示す
原稿を書き終えたハウゲはオスロへ行きコペンハーゲンで印刷するように手配した。三月の第一週、彼はエルヴエラム(ELVERUM)の北方二三マイルの地点にあるグランドセット(GRUNDSET)で、数日間にわたる伝道集会をした。その時のこととして伝えられている小話の内容は、ハウゲについてのオーディング(ORDING)の回想目を裏切っている。「ハウゲは人々を会話の中へつれこむ、まれな才能をもっていた」。そして彼の会話は、いつも永遠の生命にかかわるものであった。ある時ハウゲは道を尋ねるために一軒の農場に立ち寄ったことがある。そこには二人の娘がいただけであったが、彼女達は、彼を案内するために同行した。彼女達が帰ろうとした時、ハウゲは彼女達に言った。「おかげさまで、地上の道案内をしていただきましたが、私にあなた方の霊界の道案内をさせていただけませんか?」、彼らは、別れる前に若い娘達は、ハウゲによって回心に導かれるだけの、そして生涯にわたって神と共に歩む生活に踏みきるだけの、決意をせまる神の言を植えつけられていた。
1798年の晩春のこと、ハウゲは彼がオスロで会った一青年に、最も働き甲斐のある仕事を教えた。その青年の名はクリストファー・グレンダール(KHRISTOPHERGRǾNDAL)で、さきにハウゲの集会で回心した男だった。グレンダールはハウゲにすすめられてコペンハーゲンに行き印刷と製本業を習った。1803年、彼はノルウェーに帰り印刷業を始めたが、今日に至るまで同じ事業が、つづけられている。H・N・H・オーデイング教授の編纂になるハウゲの著書の全巻物は、このグレンダール・エンド・サン印刷所で製本されたものである。
再捕縛
オスロを訪問伝道中のことだった、ハウゲと平信徒の同労者が、放浪と怠慢の理由で告訴された。そして感化院へ投りこむといって脅かされた。ところが市の司政官の取調べが済んで彼に都合のよい証明書と自由が與えられた。八日の後、ハウゲは再び捕縛され彼は二人の官吏の監視つきのもとに、故郷へ送還された。彼らはハウゲを町外れまで送ったが、後はひとりで帰るように言って放免した。故郷の地区司政官は、ハウゲに家にとどまっているようにと忠告した。然しハウゲはそれらの官憲の命令に屈することなくより広範囲にわたる伝道旅行を試みるために、その第一歩を踏み出そうとしていた。
ペン、再び怒る
1798年の六月、彼がさしせまった気持ちにかられていたのは、オスロで二度捕縛された事件を記録に残して、彼を批判する人々に、彼自身の正しさを証明する考えであったゆえだ、そこで彼は「無学な者の学識と無力な者の力量」と題する一書を著した。この本の中の二章は建徳的な聖書解釈についやされ、第三章は論証的である。ハウゲ自身が言っているように、この書物は彼がそれまでに発表したどの論文よりも、激しくその論敵をその中で攻撃している。ハウゲは徐々に、彼の召命の確かさに自信を深めていった。彼の証言は、人々の心を力強く捉えてやまなかった事実、それが何よりの証明であった。彼の伝道によって多くの人々が回心したという事実、それも自信の根拠になった。ハウゲに好意をよせていた官吏オスフォード(OSTFOLD)のホフガード(HOFGAAD)やオスロ地区司法官のハゲラップ(HAGERUP)のような人物がいた事実も、彼の自信を強化させた理由である。彼の伝道に反対する者の声が高くなればなるほど、彼は、神が彼の説教を用いて、人々の心を感動させておいでになるものと堅く信じた。従って彼は、彼に挑戦する者に対して、ますます強烈な攻撃を遠慮なく加えるのであった。
さきにふれた彼の著書の中で、ハウゲが教職者に加えたはげしい叱正は、デンマークの権威筋によって、数年後のことだが、ハウゲ攻撃のために引用されているので、彼の大胆不敵な信念を示す一例としてここに紹介しよう。
世俗的な人々はいう。人はその召されたままの状態にとどまっているのがよいと。(コリント人への第一の手紙七章二十節)牧師はいう、人々は神によってそれぞれの場所におかれたものであり、王は神の言を説くべきであると。もし人々が、神によってそれぞれの場所におかれたとしたなら、彼らは神からそう教えられた筈である。(ヨハネによる福音書六章)彼らは自由自在に受取り、自由自在に人々に與え得た筈である。(マタイによる福音書十章八節)彼らは機を得るも機を得ざるも福音を説き、忠告し、奨励したに違いない。もし彼等がキリスト・イエスの心をもつなら、彼等は此の世の悪の故に、日夜泣き悲しむのが自然である。ところが彼らの多くは、水の上に坐っている大淫婦そのままなのだ。(ヨハネ黙示録十七章一節)・・・彼等は赤い獣に乗る者、神を汚すかずかずの名でおおわれている者、七つの頭と十の角をもつものである。(三節)この獣は、神に敵する権威をもつ者を意味し、その七つの頭は、主の祈りの七つの祈りを意味する。彼らは口では祈るが、その心は石の如くに堅く、赦しを嘆願しては、再び同じ罪を犯す、・・・そのような常習者を、日毎にふやしているのである。
ノルウェーの歴史の中でハウゲが占めている高名は、彼の流暢な文章のせいでもなければ、聖書釈義の正確さに基づくものでもないことは明らかである。彼が同胞の信頼と尊敬をかち得たのは、主として、偽善をきらった純粋な熱心さと、迫害に屈しなかった勇気にある。彼がもし判断においておだやかであり、その表現に注意深くあったなら、あれほどの反対は起こらなかったであろう。然し教会が眠りこけていたあの当時、信仰復興の巨火をたきつけるためには、やはりハウゲのような熱烈な人物が必要であったに違いない。
長期伝道旅行の始り
1798年の七月、ハウゲがベルゲンへ伝道旅行を試みたその時から、この単純な一農夫は、救霊の熱情に燃えて、ノルウェー全国の無数の町々村々を隈なく訪れることになった。彼が試みた長期伝道旅行は実に八回にのぼった。そのうち四回はチューネにある彼の自宅を拠点とした伝道旅行であり、他の四回は彼がベルゲンの市民となってから後、本部を同市に設置してからの伝道旅行であった。これらの伝道旅行がハウゲの生涯を飾る物語りの中心である。ハウゲを知ることは、彼の疲れを知らぬ伝道旅行の足跡をたどることであり、至るところで彼が創造した霊的なふんいきに、触れることである。アルフレッド・ハウゲは次のように書いている。「ハウゲが行く処にはいつも春風が伴われて行った」と。マッヅ・メェラー(MADS MǾllER)と呼ぶドラメンの一商人は、ハウゲの親友のひとりであったが、ハウゲをベルゲンへ送ったのは、そして旅行の一切の世話をしたのは、彼であったと言われている。メェラーは、ベルゲンでなら迫害は少ないだろうし、霊的教育活動により大きな自由が與えられるであろうと思ったのである。その後の出来事が、彼の判断の正しかったことを証明している。
ベルゲンで
1798年のベルゲンは、ノルウェー最大の都市であった。合理主義の波が、ノルウェーの宗教に対する忠誠心を奪い去ろうとした時、ベルゲンは伝統の敬虔主義と正統派の神学に堅く立って動かなかった。1747年、偉大な敬虔主義派の学者であったエリック・ポントピダンが監督としてそこへ赴任してきた。今日、ノルウェー人がポントピダンを「神格への真理」つまりルターの小教理問答の解説書の著者として記憶しているのがその人である。「聖書に次いで、本書ほどノルウェー人に大きな影響を與えた書物は外にない。それは、その他のすべての書籍にまさって、ほんとうのキリスト教とはどんなものかという認識を、ノルウェー人の心中に植えつけたからである」とイバア・ウェル(IVARWELLE)が書いている。1798年に合理主義者達が、新しい讃美歌集を編集出版した時、それを採用しなかった唯ひとつの都市、それはベルゲンであった。他の諸都市が合理主義の波に呑まれて行った時、ベルゲンを保守派の孤島として守り抜いた中心人物は監督ジョン・ノーダール・ブラン(JOHNNORDAHLBRUN)であった。
ブラン(BRUN)の名は、愛国者として、詩人として、教会人としてノルウェーの歴史の中で光彩を放っている。彼は十四歳までに聖書全巻を、二回にわたって読み通したと言われている。青年として、彼はコペンハーゲンで教職者になる訓練と教育とをうけた。卒業後トロンハイムとビネセット(BYNESET)で牧師をした後1774年にベルゲンへやってきた。1797年に監督代理となり、1804年に監督に任命された。監督ブランは、人々の共感を誘う、恵まれた性格の持ち主であった。彼のキリスト者としての生涯は、不抜の信仰と天賦の知恵で光り輝いている。彼はすぐれた説教家で、彼の説教は正統ルター派の聖書解釈でつらぬかれている。彼の幅広い人生経験から湧きあふれる何ともいえない甘味は彼をしてベルゲン市民と社交界の花形とならせた。彼の庶民的な人気と、愛国的情熱は、国民の間でよく愛唱されてきた次の歌の中に脈うっている。
ノルウェーよ英雄達のふるさとよわれら今、汝のためにこの杯を乾す
1814年ブランはノルウェーの独立を叫ぶ、最も勇敢な煽動者の急先鋒であった。然し彼の名を不朽なものにしたのは、合理主義の侵入を許さないで、ベルゲンの人々を伝統の保守的信仰の中に守り抜いたことである。彼がこのような重大な役割を演ずるにあたって彼にとって有力な協力者となった者は、彼以上に有名な聖書信仰の擁護者ハウゲであった。
ベルゲンにおけるハウゲ
1798年の七月ハウゲがベルゲンへ到着した時、彼はほとんど人に知られていない一箇の風来漢であった。けれども、彼の著書を読んでいた人々の間に、彼はたちまち多くの未知の友人を発見した。彼らはハウゲの説教を聞きたがった。彼は当時三冊の書物の草稿を携えていたが、その出版準備のあい間あい間に、集会をひらいた。そのうちの二冊については、すでに前文で紹介済みである。第三の書物は、書物というべきではなく、聖書全巻の輪郭に従って、聖句を併列したものであった。ハウゲは聖書の読み方に熟達していない人々を助けて、聖書の核心をつかませたいと焦慮した。彼らが、キリスト者としての生活を鼓舞されるように、建徳的な聖句、教訓的な聖句に親しませようとして工夫したものである。本書と、その付録は二年後に出版されたが、これも黙示録を含むハウゲの聖書知識の該博さをよく物語っている。
ベルゲンにおける彼の多忙な 毎日は、このようにしてつづいた。ハウゲを尊敬し、彼の集会によく出席した人々の中にマレン・ボース(MARENBOES)女史がいる。彼女は監督エリックポントピダンの家政婦だったが、ハウゲの説教によって、神との個人的交りに入ることを知った老婦人であった。彼女はハウゲの証言の中に、あの偉大なポントピダンと同じ信仰の流れをくむ、そしてその深さにおいて優っても劣らない神の言の反響を聞いたのである。1804年、彼女が天に召される日まで、彼女はハウゲの伝道に傾倒した。彼女は彼の名を汚すものがあれば悲しみ、彼が投獄されれば、共に苦しみ悩み、終生祈りぬいてハウゲを助けた女性であった。
今ひとりハウゲに有力な信仰の友があった。それはサムソン・トービョルセン・トラー(SAMSONTHORBJORNSENTRAAE)である。彼は軍人だった。ハウゲが霊性の問題で個人指導をした多くの他の人々の場合と同様、トラーもまた若き日に良心に目覚め、自分の力で、古き性質を追い出そうと努力した。ハウゲは彼に神の御慈悲に信頼することを教え、すべての罪を洗い清め給うイエス・キリストを常に仰ぎ見るようにとすすめた。彼は回心後、平信徒伝道者として国内を伝道して廻ったが、ベルゲンへ帰ってからは、ハウゲのグループに入り、商人として実績をあげて、ハウゲの運動を支援した。
八月になって、突然、ハウゲは警察からの召喚状をうけとった。彼は、著書の全部を提出することと、集会を中止するように命ぜられた。数日の後ハウゲの訊問が始まった時、彼は謙虚にその平素の主張をくり返して述べた。「神を畏れ、人々が互いの徳を立て、悪しき業を捨てて、キリスト者にふさわしい生活をすることはいいことではないか?」と、ハウゲはまた言った「権威者が徒らに刀を腰にしないということはいいことである。然し悪を罰し、善を保護したとすれば、それは一層よいことである」と。ハウゲにとってこの確信は根強く、パウロと同じように「神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものである」と、彼は信じていた。こうした点で、ハウゲは素朴で非現実的だったと見做す者があるが、国家創建の初期からノルウェーは、ルター教会の信仰を、国民宗教として採用した国柄だけあって、ハウゲのこの確信には、あらゆる根拠があったと言える。キリストの福音の説かれるところ、必ずその社会に道徳的、社会的福祉の向上が見られるというハウゲの主張には、ルターの思想を思い起こさせるものがある。だから、キリスト教は、それ故に寛大に処遇されるべきであるにとどまらず、公的にも保護されるべきであるとした。
訊問が進んで、警察署長が1741年の法令を引用し、公開伝道集会は明らかに制限されているではないかと詰めよった時、ハウゲは本然として次のように答えた。「神の言を涜し、また詛う者は、曝し台にかけられるべきだという法令がある。もしこの法令が強制的に執行されるならば、全市は曝し台でいっぱいになるであろう」
ハウゲは釈放された。彼は、彼の機知によって自由をかち取ったといえよう、然しそこには、今ひとつの事実があった。監督ブランはハウゲの集会のことや、ハウゲの著書の内容について地区の行政長官から彼の見解を求められていた。ブランの回答の一部分をここに紹介する。
「ハウゲの著書や、当地における彼の運動の進展状況については、私は最初から情報を受取っていた――警察が彼を放浪者扱いをすることが出来るかどうかの判断は、私の権限外のことである。然しながら私はこの人物について、現在も同様に考えているのだが、彼の純真敬虔な神への奉仕について知ることは、彼について報告されている騒乱の事実や、街頭での集会を抑止するためにむしろ役にたつ最善の方法であると信じている。彼はどう見てもフランス革命当時のヤコビン党のような扇動者ではない、彼のとるにたらぬ、何らの組織を背景にもたない集会は、教会にとっても国家にとっても有害だとは思えない。むしろ有権者によって投票されない者を除外する法人団体の方が危険なのではないか?神を恐れる人々が、隣りの町の人々と共に、夕の祈祷会をひらくことが誰にも許されているように彼の集会は許されるべきだ。彼は善良な人間には常に起こり勝ちな、とるに足りぬことを書いたり喋ったりしているにすぎない。1741年1月十二日に発令された法令は、たとえ教職者であっても偏見から、自己主張を通そうとする者がある場合に取締り上必要であったからである。更にその法令の全文に従えば――附則によるのではない、事実によって言うのだが――今では新聞の自由によって無効になっているものである。一知半解の記者が、神の言にさからった文を、百万の読者に向って発表することが許されているなら、無学ではあっても神の言を愛する者が、幾人かの人々の集る私宅で彼等のすきなように、学びかつ語る自由は與えられている筈だ」・・・。
監督の保証によって、ハウゲの運動は宗教的な性質のものであり、政治革命を志すものでないと知った官憲は、安心してハウゲを釈放した。それから後のハウゲは、宣教と出版の完全な自由を與えられた。但しベルゲン地区の官憲の威信の行われる範囲内に於てであったが――。
ハウゲはベルゲンの人々を愛した。彼らの衣服に関する単純な好みは、彼自身の好みに合っていた。他の諸都市にくらべて、ベルゲン市民の間には虚栄の横行がみられなかった。時にはしめし合わせて彼に石を投げつけるような若者もいたが、市民は全体としては、彼に友好的であった。
ハウゲはどこへ行っても、そこで出会った人々からうけた印象や彼の観測を記録にとどめている。そして彼の生涯の終りが近づいたころ、これらの記録を集録して「ハンス・ニールセン・ハウゲの旅行と重大な冒険」と題して出版した。それは彼が書いた著書の中で価値のある文献のひとつとなった。
ホルダランド(HORDALAND)の農夫やステイリイラー(STIRILER)について、彼が書いていることは、ちょっと承認し難いことであるようだ。それによると彼らの大部分のものが半人半獣の生活をしていたというのである。彼らと寝食をともにすることは不気味なことであったであろう。そこでは真面目な思慮分別があまりにも少なく、彼らの土地、彼らの心、そしてその理解を深く耕そうとする意欲が、少しも見られなかった、とハウゲは記している。彼らが父祖伝来の単純な生活習慣に固執する姿を見ても、彼は辛辣な批判は下していないが、然し、彼らの生活の惰性が、彼らの後進性によるものに違いないと彼は嘆いている。
クリスチャンサンドからエイケルへ
1798年の十一月、ベルゲンを発ったハウゲは船に乗ってスタヴアンガー(STAVANGER)に行き、そこで上陸した。その時ハウゲは数百冊の小冊子を携えていたが、道みちそれを配布して歩いた。そして機会さえあれば、集会をひらくためにそこにしばらく滞在した。どこでも人々はハウゲと会っただけで彼を愛し、彼の滞在を歓迎した。「どこへ行っても、彼はただちにその土地の人々に馴染んだ」とシヴェルセン(SIVERTSEN)は書いている。それは彼が人を喜ばせるような性格の持主だったばかりではなく、農村地帯の人々はハウゲの訪問が何を意味するかをよく知っていたからであった。それは彼らから奪うためでなく、彼らに何かを與えるためであったし、種蒔きのために、家を建てるために、信仰の目を挙げさせ、信仰による勇気を與えるために、ハウゲは来てくれるのだと、彼らは知っていた。
クリスマスまであと二週間という時期に、ハウゲはクリスチャンサンドに着き、印刷屋に頼んで古い「タウラーの回心物語」を再販しようとした。彼は同書の中の「修道院」のくだりを削除したのでは、読者にとって教えにはならないと考えたからである。
海岸ぞいの道を歩きつづけて、ハウゲはエイケルに着いた。それは、クリスマス直前だった。ハウゲがベルゲンに滞在中、各地で信仰復興が起こったが、エイケルで起ったそれは爆発的であった。エイケルの市民とその周辺に住む多くの人々が、みんなハウゲと話したがり、また彼の著書を盛んに買い求めた。「私は手に負えないほど、多くの仕事を背負って忙殺された」とその頃のことを彼は述壊している。「しばしば、私は真夜中まで旅をしつづけた。そんな日が毎日のようにつづいた」とも語っている。著書を買ってくれる者には売り、金のない人々には無料で與えたとも言っている。それは、人々の間に深刻な霊性の飢え渇きがあった証拠である。彼らはハウゲをよく知り、かつ彼を信頼していたので、彼らは彼の著書を読みたがったわけであった。或る場合には、ハウゲの著書で啓発されたために、彼らは一層彼の説教を聞きたがり、またひとりひとりが個人問題で、ハウゲの意見を求めることを望んだのであった。
1798年の新年のこと、有名なハウゲの挿話の中のひとつが実際に起こった。それは、エイケルに住むクリストファー・ホーエン(KRISTFERHOEN)の家で家庭集会が開かれたが、新任の教区牧師はシュミットであった。彼とホーエンは、後日、あの歴史的な1814年の憲法制定会議がひらかれたエイズボルの会議に両者とも出席している。シュミットはハウゲの集会のことを知らされたので司法官代理のグラム(GRAM)を同伴して会場に姿を現した。集会がまだ始まりもしないのにシュミットは、集会管理法の写しを取り出して、会衆の前で読みあげ、このような集会は非合法であると宣言した。ハウゲは前方へ進み出て「わたしは『人間に従うよりは、神に従うべきである』という神の命令をここに持っている」(使徒行伝四章十九節)と答えた。シュミットは法律の名において彼に服従をしいたが、怒号する農民達によってシュミットは沈黙せしめられた。ハウゲは説教をつづけた。シュミットとグラムは腰をおろし、黙示録から引用した聖句にもとずくハウゲの説教に耳をかたむけた。
説教が終った途端に、シュミットは立ち上って、ハウゲの説教を一々こき下ろした。「引用聖句で、一杯つまっている、然しどれにも関連がない、説明はへただし、適用は不適当だ。説教者は、他人を教えるように召命を受けたと豪語しているが、もっと正規の教育を受けることの必要をばくろしている」と。もっと悪いことにはハウゲが引用した聖書のテキストに対してシュミットは機嫌を悪くしていった。「私の父は人も知る学者であった。然し決してヨハネ黙示録の解説を試みようとはしなかった。何故なら黙示録は閉ざされた書物であるからだ」と。
「いな、それは閉ざされた書物ではない」とハウゲは答えた。彼は黙示録を大いに研究し、彼の著書の中で解説しようと準備していたのである。「もし黙示録が閉ざされた書物であるならば、黙示録の名は(アポカルプシス「隠れたるを顕す」の意)與えられなかったであろう」と、ハウゲは反論した。
シュミットは討論を継続することを好まなかった。彼は余儀なく司法官に対して、ハウゲを彼の教区外へ追放するように頼んだ。まわりにいた群衆は怒ってそれに抗議したが、司法官は彼の義務を遂行するためにハウゲを捕縛しようとした。その時ハウゲを招いた家の主人公クリストファー・ホーエンが進み出て、彼自身がハウゲを司法官の家へ連れて行こうと申し出た。この申し出に両者が合意し、集会は閉ざされた。冬の夜だったが寒風をついて約束通りのことが実行されることになった。司法官のそりが先行し、ホーエンとハウゲはそれにつづいて行くことになった。
頭のいいホーエンは、自分のそりに、その地方で一番脚が早いので有名だった馬をつけた。彼らが荒涼たる雪原に出た途端に、ホーエンは馬に鞭をくれた、それで馬とそりは疾風のように走り出して司法官のそりを追い抜き、追い越した。間もなくハウゲは司法官の権限外の土地に走りこんでいた。
ハウゲが劇的な脱出に成功した1798年を期して、彼の多難の年は終った。彼はフレデリックスタッドの牢獄で、彼の伝道生活の最初の年をくらした。彼はロメリケ(ROMERIKE)からグランセット(GRUNDSET)まで旅をした。彼はオスロで二回投獄された。彼は二冊の書物を書き第三の著書の一部を書きあげた。彼はベルゲンへの最初の旅に出て、そこで多くの友人をつくった。そこでは監督を自分の保護者とすることにさえ成功した。ベルゲンとクリスチャンサンドで彼は四冊の著書を出版した。明けても暮れても、彼は数え切れないほどの集会をひらいた。個人的指導のために多くの人々と面談した。そして子供にも大人にも、無学な者にも、学者にも神の言の約束と、聖書が人間に要求することがらを語り聞かせた。神は彼の頭上に、彼の活動とその有効な結果のすべてを、キリストのために彼がかち得た多くの救われた霊魂で飾られた冠を、着せたもうたのであった。
第5章 信仰復活運動 1799年のこと
1799年のはじめの三ヵ月を、ハウゲはノルウェーの東南部にあるロメリケ(ROMERIKE)、ソレェル(SOLǾR)、それからヘデマルク(HEDEMARK)地区で、暮らした。それぞれの地で集会をひらくためであった。ハウゲは四月に数日間の予定でTUNEの自分の家へ帰ったところ、ベルゲンの友人達から送られた手紙がたくさん彼を待ちかまえていた。彼はさっそく返事をしたためた。それは、ベルゲンにいる友人のみんなが、彼に早く来てほしいというのであった。しかしベルゲンへ彼が帰るのは数日間おくれた。それはエイケル(EIKER)で、警察署に留置されたからである。官憲は、彼をエイケル(EIKER)からコングスベルグ(KONGSBERG)へ送り、そこで彼を釈放した。
ハウゲがヌンメダル(NUNMEDAL)を通過しようとして出発した時のこと、彼は彼の内部の霊性が、恐るべき恐怖に迫られていることに気づいた。彼は今や全き不敬虔が支配する地区へ乗りこもうとしていた。そして霊的暗黒からくる妄動の波が、彼に向って襲いかかろうとしているかに思われた。彼はうれいに沈み無力感に落入り、後戻りをしたい誘惑にかられた。しかし神は、彼の苦悩の中からの祈りを聞き、彼に初志貫徹のために前進する勇気を與えた。彼はスキーで山山を越えてハルダンゲル(HARDANGER)に出た。そして、六月中のある日に、彼はベルゲンに到着して、親しい友人達に出会ったようである。七月には、彼はトロンハイム(TRONDHEIM)に向けて出発する用意を完了していたからである。この旅行中、彼はトロンハイムを訪問すると共に同地の南方地区で、数週間の伝道を試みた。同年の十一月には、彼は再び放浪罪に問われて捕縛された。獄中の彼は、1799年の終りごろまでに、せっせと執筆を継続して、彼にとっての最大の労作である「キリスト教教理CHRISTIANDOKTRINE」を書きあげた。それは九百頁にも及ぶ大冊の説教集である。それは年間を通じ教会暦に掲げられた使徒の手紙と福音書のテキストに従ったものである。
以上が1799年のハウゲの活動を地理的に追跡した大凡のりんかくである。すなわち最初の三ヵ月はノルウェーの東部で、春から初夏へかけては、ヌメダル(NUMEDAL)からハルダンゲル(HARDANGER)へ、それからはベルゲンへの旅に、年末までは、ベルゲンとトロンドハイムで過ごしたが、その間の大部分はトロンドハイム南方の地区での伝道に専心した。
認められはじめる
ハンス・ニールセン・ハウゲが、ノルウェー国民を罪と堕眠から覚醒せしめるために、神の召命をうけて決起してから、ようやく三年になろうとしていた。孤独な救霊者としてのハウゲの東奔西走の足跡は、聖職の間でも、平信徒の間でも、ようやく注目されようとしていた。ハウゲの証言は、多くの回心者を興し、これらの回心者の多くは、のち巡回平信徒伝道者となっている。だからこれは正に、真のキリスト教伝道の誕生だったといえよう。それがノルウェーで全国的運動に発展した時に賛成する者から反対する者まで、あらゆる人々がそれぞれの態度を表明したのは当然であった。こうしたハウゲ物語は、1799年のドラマと共に生彩に充ちあふれて、いつ迄も生きつづけるであろう。たった二十八歳のチューネ(TUNE)からきた農民伝道者の前に、友として、また敵として、多くの人物がこれからこの物語の中に登場するのである。
ラルスヘムスタッドLARSHEMSTADをめぐって
ラルスヘムスタッド(LARSHEMSTAD)はヘデマルク(HEDEMARK)出身の平信徒伝道者であった。彼は1799年の夏トロンドハイムに向って北上し、その年の秋、ハウゲの運動に合流した。彼もまたその時までに一度検挙された経験をもっているが、ハウゲと一緒にレインストランド(LEINSTRAND)での伝道中に再び捕縛されている。
トルレフベーチェTOLLEFBACHEの活動
ハウゲの同志の中で、重要な位置をしめた人物の中にトルレフベーチェ(TOLLEFBACHE)がいる。ハウゲが彼に始めて会ったのは、彼がヌンメダルを通ってベルゲンへ行った1799年の春であった。監督バング(BANG)によると、霊的事象に関する洞察力に関するかぎり、ベーチェ(BACHE)は、ほとんどハウゲに肉迫する能力をもっていたといわれる。然しその後ベーチェ(BACHE)が、ドランメンに住んでいた頃、彼はハウゲ派の中でも指導者として重視されるほどの強烈な自信家であったが、同時に強情な男であったらしいことが彼の不幸な結婚から生じた困った処理の仕方に現れている。ベーチェ(BACHE)の名は、アメリカにいったノルウェー移民の間で、立派な牧会伝道をした若いデンマーク人クラウス・クラウセン(CLAUSCLAUSEN)の名と結びついて伝えられている。彼はクラウセン(CLAUSEN)に渡米をすすめたのみでなく、「古いマスケゴオ教会」の建築資金として四百弗を寄付している。
マレン・ボエスについて
ベルゲンの年長のマレン・ボエス(MARENBOES)については、さきにもちょっとふれたが、彼女は1799年の夏、ハウゲがベルゲンに滞在していた当時、ハウゲに全財産を提供するからぜひ、ベルゲンに永住の本拠を定めるようにとすすめた。然し、ハウゲは彼女に答えていった、「たとえあなたがベルゲン全市を私にくれるとしても、私はベルゲンに落ちつきはしないであろう。一箇所に安住するということは、僕が確信し熱望していることと矛盾するし、同胞の救霊のために選ばれながら、その選びにそむくことになるからだ」と。ハウゲは翌年ベルゲンに姿を現わしたが、その目的はベルゲンに伝道活動の本拠を置くことと、今一つ財政上の都合からであった。ハウゲが結局マレン・ボエス(MARENBOES)から伝道資金の援助を受けることになった時、彼は恩をきせられることをいとい、借用証書を彼女に渡した。
迫害、そしてそれは何の為だったか?
ハウゲがまだベルゲンにいた頃、ノルウェーの東部で伝道していた彼の同志のひとりが官憲に捕縛されたというニュースが伝えられた。その年の春なお浅いころのことであった。ある官辺筋と聖職者の間で出版されていた新聞がノルウェーにおけるきわめて初期の出版物のひとつに、その頃、平信徒伝道の可否についての激しい論戦を掲載した。そのころ平信徒伝道者数は国中で増加の一途をたどり、彼らの集会はあちらこちらの教区の注目をひくようになっていた。同時に信徒伝道反対の声も高まるばかりであった。反対運動の代弁者は、多くの場合聖職者であった。当時の論争の記録からわれわれは、両派の論争のいきさつがどうして生れたか、またそれが原因でハウゲが検挙され不当な投獄の浮き目にあったいきさつを見出すことが出来る。1799年に起こったハウゲ派に対する反対論は次の四点に要約することが出来るようだ。
放浪癖について
(1)放浪癖は法律違反
これには1741年の集会禁止令、及び「ひとはその天職にとどまるべきである」という、古くからの世論が引用されている。後者の考え方は、聖書から出ていただけに、重視されたばかりでなく、これはノルウェー国民の社会常識になっていたものである。けれども経済事情の変化と、人口の増加から、この伝統的社会制度にひびがはいりかけていた。そのことに気がついていた人々の中に、初期のハウゲ派の人々があった。
- へたな説教――やむにやまれず踊り出した平信徒説教者に対して、いっさいならずあびせかけられた非難は、彼らは説教らしい説教をする能力がないということであった。彼らは関係のない聖句をごちゃまぜにして喋っているだけだという罵声が飛んだ。学校教育を受けたことのない彼らのことであるから、彼らは聖書的用語に通じていなかったであろう。彼らは、自分が引用している聖句のほんとうの意味をつかんでいないなどという専門家側からの非難の声が絶えなかった。
- マンネリズムに堕した敬虔な態度の不評判――泣き声で泣きはらした目で見つめ、首をかしげて説教する。これはハウゲ派の説教家達に対する世間の定評であった。高貴な人間性に生きぬくことを、庶民に望んだ、目覚めた説教家達にとってこの世評は、最も腹立たしいものであった。表面的なものにだけふれたこのような酷評に対して、正直なキリスト者の多くは、合理主義者こそ、人間性の尊厳についての新しい理想像に対して、まっ正面から反対の立場にたっているのだといって反ばくした。
- 味わいのない神学――平信徒伝道者の説教の内容に対する反対理由として挙げられたものの一つは、彼らの説教には神学がないということであった。合理主義者の使徒のひとりは、次のような反対理由をあげている。「彼らはダビデ・ホラツ(DAVIDHOLLATZ)やマギステル・ピーター(MAGISTERPETER)、オリバリウス・ブッゲ(OLIVARIUSBUGGE)のことや、彼ら自身の伯母さん達のことについて述べ、ここに唯一の救いの道があるんだという。そしてもっとも不合理で、もっとも無慈悲な血の神学を宣べ伝えている・・・彼らは、ひとりの人間が、自ら回心しようとする努力は、無用であり,むだであるといい、また人間は誰でも、神とイエスに叛くもので、生来の敵意をもっているものだといい、もっとも正しい、そして徳望のある人間でも、なお審かれるに価する罪人であると説く・・・そして人間が自分の能力に絶望する時、それはイエスを信ずる信仰が始まる時だと説く、彼らはこうしたかずかずの非キリスト教的なことをおしえている」と。
ハウゲの同志達は、これらの反対論を耳にするごとに、彼らはハウゲの指導に従い、「われわれは同胞の救いのために召命をうけたものだ、われわれは彼らが、その罪を放棄して、神々しい生活をするようにと、奨励しているだけだ」と応じた。彼らはまた言った「神の言以外にわれわれは何ごとも説かなかったし、悪魔が人に與えたものについて注意する以外、他人の生活に立入ってその邪魔をした覚えはない」と言った。
合理主義神学をはんばくする場合、彼らは聖書と、ルターとジョンアルント(JOHNARNDT)の説を引用し、ハウゲがホラツ(HOLLATZ)やブッゲ(BUGGE)を推薦したことがあるという風説を否定した。ハウゲ派の人々はつねに理論よりも信仰への従順を強調した。理論ではキリストを理解することは出来ない。聖霊を通して働く信仰のみがキリストを理解しうる。このような信仰が根をおろす時、神と、神の命令に対する忠誠と従順の精神が成長し、新しい人生にふさわしい信仰の実がみのり出すのは、それから後のことだ。何よりも先ずキリストの身体に接木されたままであることが大切だとした。
ハウゲが回心の後(1796年)、彼の家で訓練した平信徒伝道者のあるものが、オスロフィヨォルド周辺で盛んに伝道していたその直後のこと、ハウゲ派とその反対派の間の論争は深刻な様相を呈してきた。まず司法官グラム(GRAM)がエイケル(EIKER)で伝道していたペーダー・ロエル(PEDERROER)を見つけて、オスロの懲治監に投獄した。彼は伝道をやめるという約束をしないかぎり、終身懲役に処するという判決をうけた。三日の後、ハウゲ派の三人の伝道者が同じ運命に会った。それはヘムネス(HEMNES)地区の牧師の煽動によるものであった。
同志の投獄を知った時のハウゲの態度については、彼が1799年七月十五日に、ベルゲンから出した次の手紙によって知ることが出来る。「私は悪いことを平気でやる人々がいることを嘆かないわけにはいかぬ。彼らは、彼らの平和に役立つものが何であるかを、知らないし、善を行って、かえって迫害を受ける人達と共に喜ぶことを知らないのである。私はこの時期において、もっと多くのほんもののキリスト者がいてくれさえすればと願うばかりだ。もし悪人らが善良な人々を監禁するなら、懲治監は、たちまち満員になってしまうであろう。たとえそうなっても、神は大なる収穫を得るために、必要な働き人を確保し給うであろう」と。
ノルウェーの東部地方では、もっと多くの迫害があった。九月には、ハウゲの兄弟のミッケル(MIKKEL)と甥のパウロ・グンデルセン(PAULGUNDERSEN)が、説教したというかどで監禁された。浮浪罪に問われて、同じように監禁された七名の者が、説教の中止に同意しない限り重労働に処すという判決をうけている。そのうち三人の者は家族を扶養する必要があったので放免され、ひとりは僻地に移され、ひとりは一年間の獄中生活の後、説教をしないという誓約をして放免され、残る二人の者は獄中にとり残された。その最後の二人というのは、トルケル・ガベスタッド(TORKELGABESTAD)とミッケル・ニールセン・ハウゲ(MIKKELNIELSENHAUGE)であった。彼らは神の言に対する忠誠をあくまで守って、二ヶ年半の獄中生活に耐えた。シベルトセン(SIVERTSEN)が言っているように、彼らがこんな風に理解され逮捕されて、「放浪者」の罪名をきせられたということは、彼らにとって最も心外なことであった。かって労働をいとうたことのない農民伝道者達は、彼らの自給伝道のために、そして、その熱心な宣教の働きのために、高価な代価を支払わされたのであった。浮浪者として監禁されるということは、彼らにとって断腸の思いのする侮辱であった。
ニイルス・リイスについて
ノルウェーの史上で、平信徒伝道者達が盛んに活動した時期に、幾多の魅力ある人物が輩出した。ニイルス・リイス(NIELSRIIS)は、そのひとりで、彼の勇気と多彩な物語りはトロンデラーグ(TRONDELAG)の人々の間に、今でも語り伝えられている。ハウゲが1799年の秋に同地を訪れる前から、彼は、人々の魂を捉えずにはおかないその力ある説教によって、多くの霊魂を救い、多くの信奉者を獲得していた。リイスは僅か十九才の青年だったが、非凡な信仰的情熱に燃やされていた。
リイスは1799年の夏コングスベルグ(KONGSBERG)からモルデ(MOLDE)へはじめてやってきた。土地の人々は好感のもてる彼の人がらを愛し、その説教を喜んで聞く人々の数がかなりあった。ところが、まもなく彼は逮捕されトロントハイムへ送られることになった。それにもかかわらず、その途中でさえ、彼は何とかして集会をもちつづけた。レンネブ(RENNEBU)でもメルダル(MELDAL)でも彼の説教を聞こうとして相当の人々が集った。彼がトロントハイムで投獄された後で、一地方新聞は、彼とハウゲのことを嘲笑した次のような記事を書いた。
「リイス(RIIS)は、聖書を読みすぎ、祈りすぎ、信心しすぎて、頭が変になっていたのである。・・彼にはどんな忠告も耳に入らない。彼は馬鹿で、押しが強くて、人が話している時にも黙っていることが出来ず、朝から晩まで、口から泡をふかせて喋りまくるこの男には、手の施しようがない」
「ハンス・ニールセン・ハウゲは、国内に散らばった放浪者の群れの主将として大祭司として悪名高き男だが、とうとう当地に姿を現した、然しいまだに逮捕されていない」と。チュグトウセット(TUGTHUSET)紙の如きは、次のような記事を発表した。「これらの聖職をまねる浮浪者共が、説教をしているところを、どんな便法でも用いて、とっつかまえ、ほんものの浮浪者として懲治監へ投げこむべきである」ハウゲは直ちに記事の訂正をもとめて反論を書き、同紙に掲載させることに成功した。
ニイルス・リイス(NIELSRIIS)は、出獄後ただちにメルフス(MELHUS)の南方地方へ出かけた。そこでも追い払われて、さきに伝道したことのあるメルダル(MELDAL)とレンネブウ(RENNEBU)へ帰った。その時、その地方でのもっとも強烈な庶民の覚醒と騒動が起こりまたもっとも尖鋭で、もっとも劇的な闘争が起こった。庶民はニイルス・リイス(NIELSRIIS)を指示し、教職は平信徒伝道者リイス(RIIS)を抹殺しようとしたのである。
周地の牧師パレリウス(PARELIUS)は、教会の礼拝が終った後で、リイス(RIIS)が集会を開いて説教をしているところへ飛びこんできてリイス(RIIS)の口にハンカチーフを詰めこんだ。そして彼がいうところの「馬鹿馬鹿しい説教」を聞くために集っていた会衆に向って、嘲けりの言葉を吐いた。群衆は牧師の態度に憤激し、ひとりの婦人は声をあげて叫んだ。「リイス(RIIS)はジャガイモ相手の説教しかできない、あなたより、よっぽど立派な説教をしてくれる」と。
リイス(RIIS)は捕縛されたが、二百人ばかりの野次馬が、法廷の傍聴席になだれこんで叫んだ「神の言葉を語るこの人をどうするつもりなのか説明しろ、彼は、小教理問答の解説をしてくれる牧師と同じことを語っているだけだのに」
リイス(RIIS)が、いよいよ投獄されるときまった時、農民達の怒りを代弁してカリ・レッセル(KARIRESELL)とスチルカー・リグスタツド(STYRKARRIGSTAD)の二人が、即興詩を歌った。恐れを知らないこの二人はニイルス・リイス(NIELSRIIS)を弁護するために立ち上がり、次のような歌を唄った。
ほまれの塔は地にくずれ落ち愛は冷たき石の如く、冷えたり
正義はすべてその威力を失い童心はいずこにも見当らず
虚言は真理の衣をきて通り真理は地に落ち沈黙はつづく
不正は裁判官の目をくもらし石はそれを眺めて泣く
リイス(RIIS)は二回目に釈放されてから、またメルダル(MELDAL)とレンネブ(RENNEBU)で、伝道を再開した。スチルカー・リグスタツド(STYRKARRIGSTAD)は、司法官の手からリイス(RIIS)を取り戻すことに成功し、この若き説教者を支持する人々に対する牧師のパレリウス(PARELIUS)の反感に油をそそいだ。
ミッケル・グレンダール
リイス(RIIS)よりも、少しばかりよく知られている男にレンネブ(RENNEBU)からきたミッケル・グレンダール(MIKKELGRENDAL)がいる。彼はハウゲがトレンデラーグ(TRǾNDELAG)にいたころ、多事多難な伝道の戦いの中で獲得した回心者のひとりであった。彼は後には政界に進出したが、ハウゲの親しい友人のひとりとして著名である。農場主であった彼は、その方面での繁栄を約束されていたが、ハウゲは彼に逞しい商魂のあることを見抜いて、商業学校へ入るよう勧告した。彼はドランメン(DRAMMEN)とベルゲン(BERGEN)で、商科のコースをとり、後クリスチャンサン(KRISTIANSAND)で、商売を始めた。彼の事業は繁栄し、地区のキリスト者にとって大なる祝福の源となった。グレンダール(GRENDAL)は1830年から1842年にかけてノルウェーの国会議員として活躍したことと、ハウゲと彼によって興された信仰復興に関する立派な著書の作者として知られている。
トロンハイムでの出版
ハウゲのことにもどるが、彼は1799年の八月にトロンハイムにやってきて、彼の旅券の査証を貰うために、まっすぐに警察署を訪ねた。彼はそこで、直ちに逮捕されそうになったが、彼は著書の印刷をするためだと言って正当な滞在許可をとることに成功した。彼が出版した初期の著書は大部分売りきれになっていたので、再版の必要にせまられていた。新著はただ一冊でTheTrueBelievers’BookofSelectedHymns(ほんものの信者のためのさんびか選集)であった。その中のあるものは、ハウゲ自身が書いたもので、他は数冊のさんびか集から抜粋されたものだった。ハウゲの選集は、いつも成功だったとは言い得ないが、彼こそ、ノルウェーのさんびか集に、ハンス・ブロールソン(HANSBRORSON)のさんび歌を編入した最初の編集者だった。ハウゲは多くの悔改の心境を歌ったさんび歌を挿入したがルターの傑作の大部分が忘れられている。この事実は、贖罪を盲信して信仰に生きることを怠る者のあることをおそれたハウゲの心境を反映するものであろう。
ハウゲは彼自身の信仰生活を通して彼がどんな風に恩寵を理解していたかを、その生き方で表現した。しかし悔悟と回心を説く偉大な予言者として、彼はキリストの代償の死を信じると言いながら、回心の実を示さない者に対して、聖潔の名に価する生活を営むことなしに、聖餐にあづかることの功徳を信ずる者に対して、不断の警告を発しないではおられなかったのである。ハウゲは、さんび歌集の編集者としても、信者に道徳的生活を要求する者であることを明かにしておくことを忘れなかった。
ハウゲは彼の友人の印刷屋からクリスチャンサンドに印刷屋の賣物が出ていることを知った。まもなく彼は印刷業に多年の経験があり、その賣物の印刷所を買う能力のあるひとりの男を見つけた。彼が印刷業を始めると同時に、ハウゲの平信徒運動はそれ自体の印刷所をもつことになった。ハウゲの数冊の著書もまた、そこで印刷された。
ハウゲとヘムスタッド
トロンハイムを去ったハウゲは1799年の秋を、同市の南東地区の田舎ですごした。ラース・ヘムスタッド(LARSHEMSTAD)も、彼と共にいた。彼らの単純卒直な説教に、不思議な力があって、地区の社会生活は目に見えて改善されて行った。特にラインスツランド(LEINSTRAND)において、着目すべきものがあった。「この教区では、おおよその人々が、飲酒と呪詛と、その他のもろもろの悪を放棄した」とハウゲは書いている。監督シェーエンヘイデル(SCHǾNHEYDER)は、信仰復興後の道徳生活の改善に目をみはった。然し彼のひいき目は、それ以上に進展しないことがやがてあきらかになった。
ラインスツランド(LEINSTRAND)とメールフース(MELHUS)地区で起こった信仰復興は、地区の評議員長ディーン・ハンス・シュティーエンブーフ(DEANHANSSTEENBUCH)を当惑させた。彼は学者であったが、古い思想の持ち主で、説教は政府によって任命された牧師以外のものに許してはならないという主張を固執していた。彼は教壇から狂信的信仰を激しく批判し、ヘムスタッド(HEMSTAD)とハウゲを捕縛すべきだと脅迫した。然し司法官のイヴァール・モンセン(IVERMONSEN)はシュティーエンブーフ(STEENBUCH)に手紙を書いて、彼が直接的に観察してきた地区の人々の生活改善と道徳的向上が、信仰復興の結果であること、それ故に平信徒伝道者が、クリスチャンらしい態度で集会をもつことは、彼らに許されている当然の権利だと、ハウゲとヘムスタッド(HEMSTAD)の伝道を支持した。
トロンハイムにおける受難
信仰復興の結果、道徳生活の改善が目につき始めた周知の事実を省みないで、監督シェーエンヘイデル(SCHǾNHEYDER)はシュティーエンブーフ(STEENBUCH)の抗議を鵜呑みにした。十二月一日のこと、ハウゲとヘムスタッド(HEMSTAD)は召喚され、訊問された。場所はメールフース(MELHUS)であった。
シュティーエンブーフ(STEENBUCH)は、牧師を誹謗したハウゲの記事について彼に抗議した。ハウゲは、その記事の中に、特定の牧師の名があげられていないことを理由に、高慢で貪欲で、その他もろもろの罪科ある牧師のみが彼の攻撃文に対して怒るべきであると答えた。訊問の結果は、再び集会禁止法案の適用となってハウゲとヘムスタッド(HEMSTAD)はトロンハイムへ送られ、投獄されることになった。
官辺筋と、教会の権威者が、なぜこのように平信徒伝道者の活動を圧迫したか?次にあげる監督の二つの論点は、彼らの考え方をよく説明している。シェーエンヘイデル(SCHǾNHEYDER)はコリント第一の手紙7の20「各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである」を引用し、職業は相続すべきものであるという因習的な社会通念を支持しようとした。農夫のせがれは農夫として一生をすごすことが期待された。もし農夫が伝道して歩くことになれば、按手礼を受けた牧師さま達はどうなるのだ?いきおい牧師もまた彼の説教を、判り易い、興味本位のものにせざるを得ないことになるであろう。
監督が苦心した第二の点は、「隣人」の解釈である。ハウゲの著書の中にふんだんに出てくる句である。この二字の中に、ハウゲは同胞に対するキリスト者の義務を圧縮した。彼にとって「隣人」とは、誰かが親切な言葉、親切な行為を求めている時、その要求に答えるもののことであった。
監督シェーエンヘイデル(SCHǾNHEYDER)は、ハウゲに対して、「隣人」とは「近親者と、となり人」のこと、と理解さるべきであると申し送った。この解釈は、庶民をその生まれた土地に定着させようとする官辺の不断の努力に一致するものであった。古い放浪罪が復活したので、旅行者は旅行許可証を携帯しなければならなかった。ハウゲがしばしば経験したように、旅行目的の合法性を証明する必要があったからである。
トロンハイムの監督の見解は、ハウゲに対する個人的な憎しみや、背教を責めるためになされたものではなかった。それはハウゲの運動が革命的性格をもっていたこと、それが権力をもつ上流社会が維持しつづけようとする社会的慣習に反するものがあったからである。彼ら自身によくそのことが理解されていたわけではない。然しハウゲとその同志は、キリスト者の思想と行動の自由を、職業と地理によって制約していた当時の全機構に対して挑戦していたのである。
ハウゲとヘムスタッド(HEMSTAD)は、トロンハイムの獄中で、宣告を待ちつつ一ケ月をすごした。予期されたように放浪罪に処すという判決があった。ハウゲは一ケ月の監禁、兵隊であったヘムスタッド(HEMSTAD)は、軍営で一ケ月の重労働に服することになった。ハウゲは服役を苦にしなかった。彼は説教集の執筆に没頭することが出来たし、トロンハイムから友人達がしばしば訪問してくれたし、獄中の日々は、意外に楽しくそして速かに去って行った。
然しハウゲの心の中には、信仰復興の前途についての不安と動揺があった。平信徒伝道者の説教を、弾圧するこの掟の監禁がいつまでつづくのであろうか?彼とヘムスタッド(HEMSTAD)は服役中だったしリース(RIIS)も、監獄を出たり入ったりしていた。エストフォルド(ǾSTFOLD)では、外に七名の同志が官憲によって捕縛された。言葉を変えて言うなら、信仰復興の起こった二重要地区における平信徒伝道者の活動に恐慌を起したということである。弾圧の結果、平信徒運動が行詰ってしまう時がくるであろうか?四囲の状況から1799年の十二月から翌年の正月にかけて放浪罪を問われてトロンハイムの獄中にあったハウゲが、思い直して、ベルゲンで商人に転向しそうにおもわれたのであった。
けれどもハウゲは、獄中にありながら、同志を激励することができた。トロンハイム市の内外には、多くの回心者がいた。ある者は彼を獄中に訪ね、他の者はハウゲに手紙を書き、彼から霊的問題に対する忠告や解説をうけとることが出来た。彼は職業的機会に関する彼の意見として、回心者が、彼らの実践的能力を最高に発揮しうる場所におき、彼らのクリスチャン・ホームが、より多くの隣人のための中心になるようにすることが大切だと説いた。誰もが説教するのではなく、お互いに、己の仕事に励みながら、同時に信仰復興の波をひろげるために積極的な活動に参加することを、彼は望ましと考えていたのである。多くの者が説教をし、教育し、どこへ行くにもハウゲが書いたトラクトや、本を、頒布するために携行した。
平信徒伝道者の中に、数名の婦人もまじっていた。もし婦人達にも説教の才能があるなら、そして家庭生活を立派に守るなら、聖書に「婦人達は教会では黙っていなければならない」(コリント第一の手紙十四―三十四)とは書いてあるが、伝道の為の説教を彼は許した。パウロは婦人に説教させることを適切でないと考えたわけではなく、集会で、婦人達がつまらぬ質問をして説教者の説教を妨害する傾向があったので、婦人に沈黙の美を説いているんだというのがハウゲの確信であり、主張であった。かかる場合、婦人は沈黙を守り、疑問に対する解答は後に廻すべきである。
1799年は、ハウゲの平信徒運動にとって、発展の年でもあったが、また受難の年でもあった。ハウゲ自身それまでに数回逮捕されていたが、1799年は、彼に従っていた同志もまた、神の言の故に投獄されるという大迫害が始まった最初の年であった。信仰復興の波が大きく広がって行って、それを阻止しようとする反動的運動が起こるまでに勢力が伸びた事実を指摘するものである。
ハウゲがトロンハイムの獄中に静座していた時、彼は内面的な平和に満たされていた。神の御目的は、人間の戦略によって破られるものでないと確信していたからである。彼は冷酷で屈辱的な牢獄の環境に打ちのめされることなく「キリスト教教理」の執筆に没頭した。彼はそのころの気持ちを、次のように書いている。
「今度は六回目の入獄であったが、私の精神は自由で、愉快で、喜びと熱心さに満たされていた。・・・私は、私と話し合うすべての人々に與える適切な二三の言葉を常に持っていた。・・・私は私の使命を果たすための実力と、慰めをいつも與えられたし、どんな苦痛に直面しても、それに耐えうる特別な力と庇護を、いつも與えられた。」
ハウゲの友人(STEPHANSON)は、印刷所からハウゲのトロンハイムの経験について次のように書いている。
「私は獄中のハンス・ニールセン・ハウゲと、しばしば会談した。自由な世界にいる時と彼の態度はちっとも変わらず、どんな状況のもとでも、満足しうる生まれつきの性質をもっているように見えた。彼の忍耐は格別で、自分の感情に支配される男ではなかった。ハウゲを知っていた人々で、彼の精神の堅固さを疑うものはひとりもなかった。」
釈放後の南部への旅
トロンハイムの牢獄での刑期が満ちて、ハウゲは釈放された。彼が故郷へ向って出発したのは1800年の三月のことだった。彼がチューネ(TUNE)へ連れもどされるまで、ひとりの司法官の手から、他の司法官の手にと渡されたのであった。ほとんどの司法官やその助手は寛大で、途中でハウゲに会いにきた友人達との会話を許した。そんなわけで故郷への旅路は、ふたたび伝道旅行になった。まもなく官憲は、ハウゲを信頼して、ひとりで家へ帰ることを許した。彼はドーヴレ(DOVRE)山脈から、ギュデゥブランデゥダール(GUDBRANDSDAL)を通って南方へ出た。彼が休息する毎に、どこでも人々がやってきて、彼の説教を聞きたがった。彼は神の言を明快かつ、燃えるような情熱をもって語ったために多くの悩みをもつ人々は初めて神の息吹きにふれた思いをした。
リレハンメル(LILLEHAMMER)の北方オイエル(OYER)で、ハウゲがしばらく滞在していた時、そこでも大きな信仰復興が起こった。そして、それらの者の中から三人の熱心な伝道者が起こった。地区の牧師は教壇から、それら三人の者を次々に公然と非難した。けれども彼らは、牧師の承認なしにその伝道を継続した。四カ年の後になって、その牧師はつぶやかねばならなかった。「住民の半分までが、ハウゲの熱心な支持者になってしまった」と。
家族のひとりの死
南方への旅をつづけながら、ハウゲは(MJǾSA)湖の東岸を廻って、数ヵ所で集会を開いた。彼は二三日をへて四月の九日にオスロへ到着した。彼が愛していた妹のアンネ(ANNE)は、病弱であったが、そのころ霊的な悩みに苦しみ、病勢がいっそう悪化している時だった。彼女は家に帰ってきた兄を迎えた後、神の恩寵についての喜びの音信を、もういちど深く確信する信仰を與えられて、平和な臨終をとげた。1800年四月十八日、彼女の亡骸はチューネ(TUNE)の教会の墓地に葬られた。いくたびも牢獄の苦しみをなめ、いくたびも暴行を受けたハウゲだったが、アンネの死に際して彼がうけた打撃ほど深刻なものはなかった。彼は悲しみのあまり「もっとも美しい光が地上から消え去った」と、友に書き送った。
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