百姓伝道者ハウゲの伝記 第3部 10〜13章

第3部 ノルウェーの囚人 1804〜1814年

第10章 なぜハウゲは迫害されたか?

 ある人々は首をかしげて言う、ハウゲは、ノルウェーの囚人だったのか?それともデンマークの囚人だったのか?と。手続き上の経路を調べてみると、デンマークの首都から発生したハウゲに対する不正な処置に抗議し、ハウゲを保護しようと真剣に努力した官吏がノルウェー人側にあったことは明らかである。しかしたとえそうであったとしても、ハウゲが本国人のために迫害され、嘲笑され、逮捕され、彼の生国の首都で久しく獄中生活をしているのだから、国際的係争にするわけにはいかなかった。当時、ノルウェーはデンマークの支配下にあったので、ハウゲの生涯の事には、外国の支配から独立をかちとろうとするノルウェーの黎明期に関する興味ある側面を提供するものである。ところで、ここでの問題は「なぜハウゲは迫害されたか?」ということである。その回答は、二重王国制の両方から求めなければなるまい。

 ハウゲ・ニールセン・ハウゲの生涯を各時代の聖徒と並べて展望する時、彼が福音の証人として受難した人々の間に座を占めることはもちろんである。彼は後の世代の人々からも、その召命に忠実であった者として、また残忍な迫害をうけつつ冷静と威厳を、保った男として、いつまでも聖徒の列に加えられることが適切であることを認められるであろう。

 ハウゲが不当な取扱いを受けたという事実こそ、彼のための、歴史的証明の必要がいっそう痛感されるわけである。もしハウケが祖国の信仰復興に貢献した男であり、模範的な愛国者であったとするなら、彼の逮捕と投獄を理由づけるものは何だったのであろう。

 ハウゲ伝を最初に書いたのは、後になってからオスロ大学の教会史の教授となり、またオスロの監督になったノルウェー人の牧師A.クリスチャン・バング(A.CHRISTIAN BANG)であった。彼の著書は1874年にあらわれた。「青年の新鮮さに満たされていたので、ハウゲと彼の仕事に対する燃えるような情熱を抱いたのである。」バング(BANG)はハウゲを迫害した合理主義者の教職者に非難の指をつきつけることをためらわなかった。彼らは、誤謬と迷信をなくして、人々の理性的な宗教を與えようとする彼らの計画にとって、ハウゲを恐るべき強敵だと見ていたのである。クリスチャンサン(KRISTIANSAND)の監督で、かんしゃくもちで有名だったペーデル・ハンセン(PEDER HANSEN)は「教区の社交場」維持にけんめいだった。それは教会員の小さなグループが集って、よき道徳行為および愛国的感情を養うための読書会、討論会をもつことであった。この教区の社交場が失敗に終った時、ハウゲの影響によるものだとハンセン(HANSEN)は判断した。彼が1804年の4月に書いた致命的な「牧会書簡」はその結果のひとつの現れである。ハウゲの運動に警戒の目を光らせるよう政府を動かした首謀者が監督ハンセン(HANSEN)であったこと、当時、合理主義者の教職者の間に、一般的に見られた驚くべき霊性の枯渇状態から、ハウゲが合理主義者によって犠牲にされたんだとバング(BANG)が見たのはうなづけることだ。これがハウゲ迫害の大きな要素をなしていることはもちろんであり、ハウゲの生涯についていつまでも一般に信ぜられる基礎的な意見であろう。

 いまひとつの考え方をもった一派は、世俗的な歴史家で、ハウゲが監禁され罪の宣告をうけたのは、彼の企業に法律に反する点があったからだと言う。スベーレ・スティーエン(SVERRE STEEN)は次のように書いている。「寛容な時代だったし、無資格者の伝道者がモグリの伝道をやって、人の霊魂を救ったとしても何も文句をいう者はいなかった筈である。然し法律を犯して、商売をする者があれば、逮捕されるのはお定まりだろうしマランゲン(MALANGEN)で起こった不幸なエピソードは、この見方を支持するものである。ハウゲが投獄された諸原因を要約する場合、このような見解があったことを無視することは正しくない。」

 最近出版された最良のハウゲ伝に、ノルウェーのニールス・シベルテゥセン(NILS SIVERTSEN)が書いたものがある。彼はハウゲが投獄された理由について、啓発的な論証をしている。彼はバング(BANG)がいうようにハウゲに対する迫害は、合理主義に反対する者を掃滅しようと決意していた敵意に満ちた教職者の陰謀だという結論に反対している。ハウゲが教職者が煙たがる批評を書き初めた時、彼らが示した反応はハウゲに教えることではなくて、攻撃であった。それのみでない、正統派の教職者達も合理主義者の教職者達と同様に、ハウゲの?の鞭を感じたのである。生命のない正統派の信仰は、合理主義と同様に、ハウゲにとって霊的な脅威と見なされたのであった。ハウゲが彼の経歴の中で、最初に出会ったのが、その前者であった。

 国際な場面では、18世紀の後半になって、重大な事件が相次いで起こった。全欧州に革命騒動があり、庶民達が運命の日の到来をかぎつけていた時である。大西洋の彼方の新大陸では、新しい国家が生まれようとしていた。シベルテゥセン(NILS SIVERTSEN)はノルウェー国内に起こった政治的不安の例を幾つか挙げ、1804年になって、騒動が起こりそうだというので初めて政府が警戒の目を光らせるに到ったいきさつを述べている。

 1765年に起こったベルゲンの商船戦争(STRIL WAR)は、農民の勝利に終った。ロフトゥフス(LOFTHUS)で起こった暴動は、改革をもたらした。1797年に当時の主謀者は獄死したが、農民による暴動の起こる気配はそのままつづいた。1790年になってデンマーク政府は、自国の銀行をもちたいというノルウェーの商人達の強硬な要求を受け取った。然しこの要求と共に自国の大学を持ちたいというノルウェー人の要求は拒絶された。

 これらの出来事が背景となって、ハウゲの運動は政府を驚かせたのだとシベルテゥセン(SIVERTSEN)は結論する。なぜなら、ハウゲは下層階級の人々の強固な団結を築きつつあったからである。さらに彼の平信徒運動が、経済的背景をもち、財産の共同所有を示唆するに至っては、十二分に監視しなければならないと彼らが感じたのは当然なことであろう。
 然し、この要素よりも、もっと重大なことは、根本的な感情として反感があったことだとシベルテゥセン(SIVERTSEN)は書いている。ハウゲのような説教をして、人を躓かせない藝当は誰にも出来るものではない。彼の非妥協的な説教は、人々の回心を促す力があったが、ざんげしない者を敵に廻すことにもなった。この敵に廻った人々の中に政府の役人もあったであろうし、心中の不安から当局に訴え出て、人々の良心を傷つけて歩くこの巡回伝道者を取り締まらせようとしたのかも知れない。ハウゲを誹謗するためのこのような説明が、1804年の夏、大使館(THE CHNCELLERY)に提出されたのである。根本的に言って、ハウゲに対する反感は人間性の現象の中に根ざしているのである。ヨハネによる福音書3章19節に「人々はその行いが悪いために、光よりもやみの方を愛した」とある通りである。

 宗教的反感と併行して、社会的反感も現れだした。ハウゲを生んだ下層階級が、おとなしく従順であることを期待されていたが彼らの「迷信」と「無知」は、目醒めた使徒達よって、矯正の手段がとられねばならない状況にあった。市民や、官吏や、牧師達は、彼らの旅行と読書から、人間が理性を指導者とする場合に起こる壮大な可能性の幻を見た。同時にまた新時代の教師としての自覚に燃え、指導される者の従順と彼らの感謝を期待した。彼らはこんどの啓蒙運動も、伝統の示すとおり上より下に降るべきものと思われた。彼らはハウゲの運動が、どの角度から見ても、純粋に庶民階級に根を張った啓蒙運動の表明であることを認めていなかった。個人の価値、自らの職業を選ぶ個人の権利、個人の才能と所有物の適切な管理権、表現の自由、平信徒にも與えられるべき説教と教育の権利、それらはハウゲの同志によって信奉された原則であり、人間的自覚と解放の精神を、日常生活に発揮した初期のノルウェー人は、彼らだったのである。トロンハイム・タイムスの主筆が、ハウゲと彼の同志を評して、「啓蒙運動の、もっとも危険な敵だ」と言ったのは、彼が、そして彼らの仲間が、平信徒運動の目的も、啓蒙運動の目的も、正しく理解していなかったことによる。

 ハウゲに対する政府の態度を決定した要因も、つきることがなかった。そのもっとも重要なひとつは、神の業に反する敵意によって動機づけられた伝統的な反対要因で、此の世のつづく限りいつまでも存続するはずのものである。それは宗教における合理主義的解説者がやっていることとは別なやり方においてではあるが、彼らは、宗教的勢力によって推進される、下層階級の革命運動を恐れたのであった。監督ハンセン(HANSEN)が、マホメッド教徒のアブデゥール・ベテャブ(ABUDUL VECHAB)のことを例にあげていることが思い出される。第三の重要な要因は、ハウゲの同志達の活躍によって、階級の特権が蚕食され初めたことである。教職者達はハウゲの説教を、そうした意味で怒ったのである。教師達も、彼の著作と出版に腹をたてた。商人達は、彼の企業を心よく思わなかった。そして官憲は、彼の伝道旅行を迷惑視したのである。第四の要因としていまひとつ挙げたい事実がある。それは、ハウゲの入獄期間中にむしろあてはまることなのではあるが。それはハッキリ言い現すことがむずかしく、また文書にすることの殆んど不可能なことである。それは官吏の不感症とか、責任回避とでも言うが、人間の福祉に関することを取扱う場合の官吏的態度に見られるものである。ハウゲはこの冷たい非人情な無関心さの犠牲になったのだ。次章「官庁のやり方」の中で、ハウゲの事件を扱った、官吏の大げさで、時間を浪費する無関心な態度をばくろすることにしよう。
最後に、「何故ハウゲは迫害されたか?」という質問に答える三つの声明書をここに紹介する。そしてハウゲを長期にわたって訊問し、監禁した決定的要因についての討議をこれで終ることにする。
 ハウゲ・ニールセン・ハウゲ・オルディング(HANS NIELSEN HAUGE ORDING)、ハウゲの直系にあたる子孫で、オスロ大学で組織神学の教授であった彼は、次のように結論している。

 政府がハウゲの運動に対して抱いた関心の主要なるものは、宗教的活動に付随して起こりつつあった社会的、政治的影響だった。
 Dr.カーレン・ラールセン(KAREN LARSEN)は「ノルウェーの歴史」の中で、次のように述べている。
 ハウゲとその同志達に対して取られた手段は、宗教的迫害というよりは、長期にわたって安定を保っていた権威と特権を、そのまま維持しようとする努力であった。商業上の新しい企画は、時に、市民達が固執しつつあった特権を脅かすことがあった。また平信徒の伝道は、牧師の専門と考えられていただけに、彼らにとっては、やはり干渉と受取られたのである。第三の声明は、DR. B.J.ホブデ(DR.B.J.HOVDE)が、彼の書いた「北欧諸国」の第一巻に掲載されているもので、それは中産階級の登場に関する研究を発表したものである。恐らくハウゲのような正直な男は、ノルウェー国内にめったになかったであろう、しかし彼の会計簿のつけかたは確に放漫であった。彼の敵はそれゆえに、ハウゲの宗教活動は大規模な横領をカモフラージュするためのものだったと人々に疑惑の念を起こさせるような悪宣伝をまきちらしたのであった。それに加えて彼はいろいろな事業に手を出していたということ、彼の同志達が先祖代々の職業(主として農業)を守るという神聖な天則を破っていたということ、それらが官憲をしてとうとう彼を監禁するにいたらしめたのであった。註釈者の間に意見の一致がないということは、すっきりしたハウゲ観の出現を要求するが、それは歴史の上に彼が残した経歴の数々を含むものでなければない。キリスト教信仰の根本的な含意を見破る目をもっている人達はハウゲがまれにみるキリスト的人格のもち主であったことを認めるにやぶさかでない。彼は弟子の立場についての聖書的認識に従うことに忠実だったし、神と隣人を愛する者の義務を、単純にそして極めて自然に実践する男だった。彼の努力はあらゆる面において非常にダイナミックであったので、官憲が、彼を評して、イエスの弟子達に與えられた評価と同じように、「この男は世界をてんぷくさせた」とまで言ったが全くその通りだった。

第11章 官僚式方式

監禁
 ハウゲが最初に監禁されたオスロの牢獄は、じめじめした泥んこの床の地下の1室であった。彼がそこにどのくらいの期間監禁されていたかは不明である。なぜなら彼は2階の狭いそして薄暗い部屋に移されて、そこで7年の永い歳月を費したのであった。
 1804年の11月22日の夕暮、イェンス・グラム(JENS GRAM)が彼をオスロへ連行した日の前日、ハウゲはホクスン(HOKKUSUND)の牢獄から次の手紙を彼の友人達に書き送った。
「いまグラム(GRAM)がやってきて、逮捕状を見せた。私はCHRISTIANIA(オスロ)へ連行され警察署長の手に渡されることになった。地区の総督の指令は厳重で、グラム(GRAM)は必要な場合軍隊の護衛をつけるつもりでいるらしい。

 私の心は平静で、私がさきにも言ったように、神が力をかして下さる確信があるので、死ぬことを何とも思っていない。かりにそうなっても、私は私の主とともに、危機の中で耐えぬき、祈りをするであろう。私は諸君にもそうしてほしい。私に対するあなたがたの心配、また諸君自身の心配が、人間的な不安に終結しないように気をつけてほしい。あくまで神を信じ、神の言と御業の前進のためにつくしてほしい。そして柔和な心で、福音を鮮やかに説き、救ひの業を推し進めてほしい。患難をものともせず、耐えぬいてほしい。もし神がそうされる場合は、彼らをして、諸君を牢獄へ送らしめ給うとも、恐るな。

 時がたてば、私はこの身に霊の衣を着せられることになるのだ。私自身に関する限り、私は喜びにあふれている。しかし諸君に「さようなら」を言う私の心は、泣いているんだ。感謝しつつ、今、この数語であなたがたと訣別しなければならないと思えば。私が人々に願うことは、救いの道が喜びの道であるようにということだ。それが私の祈りであり、願望であり、関心事であり、そして喜びである。あなたがたと、永遠の御国で再会出来ますように、1804年11月22日 ハウゲ・N・S」

 しかし、ひとたび彼がオスロの牢獄に入れられるや、彼は筆をとることを許されなかった。しばらくの間、彼は読む本さえ與えられなかった。彼に許された仕事は、ただミットと手袋を編むことだけだった。彼はそれを売って得た金で、やっと数冊の本を入手することが出来た。独房の空気は濁っていてカビ臭かった。最初の1年、彼はたった3回外出をゆるされただけだった。彼に許された貧弱な小遣いでは、彼は必要な品物を買入れるのもやっとだった。彼は厳重に監視されていたので、友人の誰も彼に面会することが出来なかった。

「最悪な事態は、時のたつのが遅いことである。私は何にもすることがないし、読む本はないし、特に、話し合う相手がないことがつらい」
ハウゲはこうして、逮捕令状が正式に発行される6日前に投獄された。彼の罪名は、友人や隣人の集会の席上で神の言を語ったこと、罰則のない古い法規を破ったこと、事実無根のかずかずの容疑のためであった。

宣告

 11月16日、2人からなる調査委員が任命された。そのひとりは警察署長のヤーコブ・ヴルフスベルグ(JACOB WULFSBERG)であり、もうひとりは地区の裁判長ヤーコブ・オース(JACOB AARS)だった。任命書の語調から判断して、デンマーク政府が期待していた結果がどんなものであったかが充分に読み取れた。
 ハウス・ニールセン・ハウゲなるもの、ベルゲン市の一商人・・・彼は集会の中で・・・著書の助けをかりて・・・彼自身の私益を追求するもの――盲目の群集の頭を困乱せしめ、馴れた父祖代々の職業を放棄せしめ、国家の憲法と、特に教職者に対する不信感を助長することを目的とする教理をひろめてきたものである。
 その後で、ハウゲの活動についての報告をもとにする5点の論争が起こり、調査の必要が起こった。政府へ報告された内容は次の通りである。(1)ハウゲは人々に対して、家を捨て、仕事を捨て、彼とその同志達の説教、すなわち彼らが聖霊の直接的な感動によるものだと主張する説教を聞くために、集会に出席することをすすめた。(2)彼は「神聖な目的の口実」のもとに、単純な人々にすすめて、彼らの給料の大部分を「神聖な献金箱」にささげるよう説得していた。(3)彼は子供たちをだまして彼らの両親のもとを去り、彼に同行して、伝道者になるようにすすめていた。(4)彼はその著書の中で、教職者を侮辱する言葉を用い、国家にとって有害な意見をのべている。(5)彼は初期の訊問に対する答の中で、私的な祈祷会を持つことと、教育的な説話を自粛することを拒否した。

 委員の大勢は「どの犯罪と、またどの傲慢不遜な行為を、彼が犯したか」を明白にすることだった。そこで「この甚だしく危険な人物とその同志達に、当然の懲罰をあたえることだった。1805年の1月6日 オース(AARS)とヴルフスベルグ(WULFSBERG)は、ハウゲの訊問を開始した。その後まもなく、彼らが辞任を申し出たので、彼ら以上に非良心的な男が委員に選ばれた。税額査定者ペーテル・コレッテゥ(PETER COLLETT)はヴルフスベルグ(WULFSBERG)の後任に選ばれた男だったが、つむじ曲りで法律を曲げて悪用することと、役目を怠ることで、評判の男だった。彼は金持の変り者で、巨万の富を持ち、オスロの社交界では、オスロと、彼のロマンティックな場所に建てられた邸宅との間を往復する車上で、いつも古典文学を沈読していたといわれている。」

遅遠

 官僚的な仕事のやり方が、どんなにのろいか、その代表的な一例として、ハウゲの事件の初めから終りまでをみるがいい。1805年の初めにヴルフスベルグ(WULFSBERG)が調査委員をやめた時、地区の総督が後任をみつけたのが12月の末であった。しかもコレッテゥ(COLLETT)のような明らかに不適任な男が選ばれたのである。しかしながら非能率だけが、遅延の理由ではなかった。警戒を要する訊問であっただけに、任命をうけた強力な人物も、事件から手を引きたくなったのである。コペンハーゲンから送られてきた書類も、全面的にあいまいなところがあったし、同胞のひとりを罪におとすことはノルウェー人の弁護士にとってのがれたいことであった。彼らにとってはハウゲを罪におとそうとするデンマーク政府の態度が、腑に落ちなかったのである。

訊問

第二回目の訊問が開かれたのが1806年の3月27日であった。そのころハウゲの弁護士は国王にハウゲの釈放を願ったが、成功しなかった。一方ペーテル・コレッテゥ(PETER COLLETT)は、調査委員が入手していた不確実な資料を基礎に、ハウゲを罪におとしていることは、ほとんど不可能であることを発見した。彼はハウゲを国外に追放することが、最良の問題解決策だと政府に彼の意見を提出したが、回答がなかった。そこで彼とクリスチャン・イングスタッドゥ(CHR.INGSTAD)は、再びハウゲの訊問を開始した。何とかして彼を罪におとしいれる口実を、ハウゲの口から抽き出すためだった。彼らはハウゲを呼び出して5ヵ月にわたる、訊問を開始した、それは1806年の7月21日に終ったが、ハウゲはくたくたに疲れていた。

質問事項と訊問

調査委員のハウゲに対する態度、詐欺横領と非道徳的行為についての訊問は、残忍を極めた。彼らが訊問を終った時、質問事項をノルウェーの郡裁判官に送った、そこでまた再訊問が行われることになった。全国のハウゲの友人達のもとにも長々しい質問書が送られ、ハウゲ派の中で演じた彼らの役割、特にいわゆる「聖なる献金箱」または「社会金庫」と呼ばれたものに、どれほど献金したかについて答えるよう要求された。そして約600人の証人が査問された。1807年の晩秋になって、この全国的な査問の報告が集められた。11月と12月にハウゲは再び訊問された、そしてコレッテゥ(COLLETT)とイングスタッドゥ(INGSTAD)による調査は終った。1808年の3月、彼らはその報告書と調査資料をまとめてコペンハーゲンの国務省へ送った。手続き上の次の段階がとられるまで、しばらくの時があった。

控訴は棄却された

1807年から1808年にかけて、ハウゲを釈放せよという国民感情は強かった。ミッケル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)が、彼の兄の釈放を求めた時、彼は行き届いた、そして感動的な上訴の手紙を書いた、社会的に影響力のある幾人からの人々が、彼に支持を與えた。警察署長のヴルフスベルグ(WULFSBERG)、地区総督のモルトケ(MOLTKE)伯爵などはトロンハイムでハウゲを知って、彼を尊敬するようになった人々であるが、オスロの司法会議の議長ヨハン・ブル(JOHAN BULL)と共に、ハウゲの調査委員に対しハウゲを釈放するよう強硬に訴え、保釈金を積むことを自ら申し出た。しかし同委員が拒絶したのでモルトケ(MOLTKE)はコペンハーゲンの政府に直接手紙を書いて、彼およびヴルフスベルグ(WULFSBERG)の確信をひれきし、ハウゲを釈放することは、ハウゲおよび彼の有能な同志達による、正直で、有益な企業の再建を意味すると申したてた。

 国王クリスチャン(CHRISTIAN)7世は1808年5月7日、次のような回答を與えた。
 ハウゲ・ハウゲについては、彼が危険な狂信家で、彼がひろめた狂信熱によってすでに数多くの不幸なことが起こっている。彼を逮捕した目的は、これ以上に狂信熱を拡めないためであり、彼をいやすためではない。なぜなら狂信熱こそ不治の病であることがその根本的な特徴なのだから。
 それだから、現在のハウゲに見られる改善も、いずれは偽装であるか、それともそれ以上のもの、狂信家というよりも、いかさま師であったと信じる理由があると我々は確信する。
 それゆえにハウゲの事件は、法廷の裁定に委ねることが、もっとも正しい手段だと我々は判断する。
 シベルテゥセン(SIVERTSEN)は、この手紙は、恐らくF.J.コース(F.J.KAAS)が代筆したものであろうと言っている。コース(KAAS)は1802年から1808年までデンマークの大使館の議長であった。彼の地位は総理大臣に比較すべきものであった。1804年にハウゲを逮捕するように命じた令状の署名者の筆頭に、彼の名が見出される、その年の初めに出された、ハウゲに関する情報を求める回状にも彼の署名がある。コース(KAAS)がどんな動機から、こうした行動をとったかは別の問題として、長長をきわめたハウゲ事件に、彼の影響力が重たくのしかかっていたことは否めない。

戦争 そして 封鎖

 1807年の8月、対英戦争が勃発した時、ハウゲはすでに34ヵ月間、牢獄でちっ居していたのである。当時の政権下の司法組織が、平時においてさえハウゲの事件を解決することが出来なかったのである。戦時になっていっそう期待がもてなくなり、判決が下される日はいっそう遠のいてしまった。ノルウェーの海岸線が封鎖されたため、国内に政府をもつことの必要が痛感された。宣戦布告の後1週間たって、皇太子クリスチャン・アウグステゥ(CHRISTIAN AUGUST)を議長とし、モルトケ(MOLTKE)伯爵をふくめて3人の会員からなる政府委員が任命された。

政府委員の訴え

 デンマーク国王は、ハウゲの釈放を要求するヴルフスベルグ(WULFSBERG)、モルトケ(MOLTKE)、ブル(BULL)の訴願を却下した。そしてミッケル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)の手紙に対する回答はついになかった。そこでミッケル(MIKKEL)は、何とかして兄を生存中に釈放させなければと決意して、事件を政府委員に訴えた。「私にとって兄がいつまでも犯罪者以上に残酷な取り扱いを受けている事実、彼は無実の罪をきせられているにもかかわらず、そのことが証明される前に、彼が健康を失い、生命までも失う危険にさらされている状態を見るのは、私にとって耐え難い悲しいことである」と。政府委員は、事件がきわめて不公平に取り扱われてきた事実に驚き、不正が公然と行われているのではないかという可能性を信じた。そしてハウゲにとって有利な証言をブスケルーデゥ(BUSKERUD)(ノルウェーの中央部)とクリスチャンサン(KRISTIANSAND)の高官から入手した。これらの証言を基礎に、政府委員は会合して、新たに訴願状を認め、1809年の3月17日気付で、新に王位についたフレデリク6世(FREDERIK Ⅵ)あて、発送した。

 王よ、私たち は、あなたがその慈悲によって、ハウゲ・ハウゲを、保釈金積立ての上で、保釈をお許し下さるようお願いします。あなたが正義の味方であられることは、すべての人々によく知られておりますので、デンマークおよびノルウェーの市民で、裁判にかけられることなく、多年に渉って牢獄に監禁されているものがありうるなどとは考えられないことでしょう

 この訴願状は最高の権威者を網羅した政府委員から出されたもので、ノルウェーの他の政治家のグループに比し、圧倒的な政治的圧力をもつものであった。著名者は皇太子クリスチャン・アウグスト(CHRISTIAN AUGUST)、モルトケ(MOLTKE)伯爵、マルクス・ローゼンクランテゥ(MARCUS ROSENKRANTZ)、J.C. H. ヴェーデル・ヤールルスベルグ(J.C. H. WEDEL-JARLSBERG)らであった。いずれも能力があり、社会的影響力のある人物であった。最後のJ.C. H. ヴェーデル・ヤールルスベルグ(J.C. H. WEDEL-JARLSBERG)のごときは、戦争中の食糧難時代に、穀物確保のために功労のあったので国民に感謝されていた人物であった。彼はその後スウェーデンとの同盟を支持した政党の指導者となった。シベルテゥセン(SIVERTSEN)の意見によると、前記の訴願状は、たんなる一片の助言でなく、政府委員よりの強硬な嘆願状であった。にもかかわらず大使館側は、ハウゲを獄中にとどめおこうとする態度をかえなかった。訴願状はかえりみられず、ハウゲは監禁されたまま、5周年を迎えることになった。

ハウゲは釈放され製塩業に従事した

 敢為の気性に富んだミッケル・ニールセン・ハウゲ(MIKKEL NIELSEN HAUGE)と警察署長のブル(BULL)は、こんどはより便宜的な方法に訴えることにした。それが成功してハウゲは1809年の2,3ヵ月間を、牢獄の外で暮らすことが出来た。当時政府委員は、国内の塩不足を解消するために、製塩工場を建てるものがあれば資金を貸そうという案があった。国内にあったたったひとつの製塩工場の能力では、英国によって海岸線を封鎖され輸入の道がとざされていたために、国内の需要に応じることが出来なかったのである。そこでハウゲは「製塩に従事することによって、同胞に奉仕したい」という名目で釈放を要求し、彼の弟が嘆願状を書き、裁判官のブル(BULL)が大金の保釈金をつんで、ハウゲの身柄を引受けることになった。そんなわけで政府委員は、1ヵ月以内にハウゲを釈放した。1809年の2月27日から10月2日までの間に、ハウゲはもっとも濃度の高い海水のある場所を発見して、南部および西部の海岸地区数カ所に製塩工場を建設した。

調査委員は裁判官を任命した

 10月になってハウゲはオスロへ呼びもどされた。政府が調査委員から送られた報告書を検討し、判決言い渡しの用意が出来ていたからである。F.J.コース(F.J.KAAS)の策謀の結果、ハウゲに対して判決をいいわたす裁判官として選ばれた人物は、ハウゲを訊問した調査委員であった。こんなに法廷を愚弄した前例はない、しかしコース(KAAS)の謀略で、彼はハウゲに対し無慈悲な判決を與えうる有利な立場にあった。彼は国王の個人的な助言者だったので、ハウゲ事件の調査中、いつまでも彼を獄中にとどめておくように指令した手紙も、彼が書いたものである。いよいよ判決言い渡しの委員を任命する段階にきたとき、彼はコレット(COLLETT)とイングスタ(INGSTAD)を再任命することが安全だと考えた。彼ら両人が、ハウゲに対し敵意をもっていることが、その前歴によって証明されていたからである。

デンマークの政策

 1809年の4月、政府は突如として、モルトケ(MOLTOKE)伯爵を、その地位からの転任を命じ、デンマークのコース(KAAS)をアーケルスフース(AKERSHUS)地区の総督、また戦時下の政府委員に任命し赴任させた。コース(KAAS)はその新しい地位を利用して、ハウゲ事件にいっそうの圧力をくわえることになった。検事顧問としてコース(KAAS)はヤン・ブロム(JAN BLOM)を任命した、彼はハウゲを終身奴隷の刑に処すのが適当だと考えていた男である。コース(KAAS)はまた被告の弁護士にニールス・ルムホルテゥ(NIELS LUMHOLZ)を任命した。
 コレット(COLLETT)とイングスタ(INGSTAD)は、8月23日を最初の集会の日にきめた、ハウゲが製塩事業の使命を帯びて釈放されていた事実を、彼らは知らなかったのである。ハウゲが出頭しなかったので、役人共はおかんむりで、ハウゲに急いで釈明の回答をよこすよう要求した。10月になって、調査委員と2人の弁護士がハウゲと会った。ルームホルツ(LUMHOLZ)はハウゲの釈放期間をのばして、製塩工場での仕事を完了させるように要求した。しかし委員は大使館の初期の指令に支配されて、ハウゲに対し人道や常識に動かされることなく、彼を監禁する方針を固執したので、ハウゲは獄中にとどめられた。

訊問の続行

 この常規を逸したハウゲ事件の遅延に対して正義と人情の名において是正を叫ぶ声があがろうとしていた時、新しい調査が全国内に行われていた。このためにハウゲに対する判決言い渡しまでに、さらに4ヶ年が空費されることになった。しかしそこにはいくらかの待遇の緩和があった。

 そのひとつは、いまではハウゲは、訊問と次の訊問との間で、そうとうな自由時間を與えられていた。彼はロルフセェイ(ROLFSǾY)への最後の旅行を許され、エイケル(EIKER)の製紙工場を訪問した。そして彼は彼の友人メーレル通り(MǾLLERGATEN)のハルボール・アンデルセン(HALVOR ANDERSEN)の家で住むことさえ許された。彼はしばしば裁判官のブル(BULL)の家を訪ねたが、そこでは遠近から彼を尋ねてきた友人達との交りが、敬虔な感謝集会の形式になることがしばしばであった。

 最も重大なその後の発展は、ノルウェー全土にわたるハウゲ派に対する一般感情にいちじるしい変化が現れはじめたことである。戦時の困窮生活の中で、リヴァイヴァルの経験者達が同胞の間で示した、旺盛な労働意欲と、犠牲的精神に感動したのであろう。恐らく弁護士のルームホルツ(LUMHOLZ)も、訊問の再開始によって、この新しく現れた社会の一般感情が反映されるであろうことを先見したのであろう。もし訊問の再開始がなかったなら、ハウゲに対する判決は、曲解と最初の訊問の結果報告だけを基礎にして行われたであろう。

判決言いわたさる

 月日が流れて、ハウゲに関する善意ある報告がなされつつある間に、ハウゲは彼の健康と神経の疲労を感じつつあった。彼は1809年から1813年にかけて、しばしば裁判官の前に呼び出された。そのうち2回、彼は重患のため出廷出来ないほどだった。とうとう 1813年の12月4日になって、判決の言い渡しが行われた。疲れはてた、病身のハウゲにとって「アーケルスフース(AKERSHUS)城塞での重労働2ヶ年、裁判費用の負担額1150リクスダラー(RIKSDALER)」の宣告が、どんなに耐え難いものであったか、察するにあまりがある。こんなにひどい奇怪千万な判決はあったものでないが、それでも裁判官は、ハウゲの永かった未決拘留を考慮しての軽い刑罰だと説明した。刑罰の理由は最後には2つにしぼられていた。放浪禁止令違反と、教職および、文官に対する侮辱罪であった。ハウゲとその同志達を、称揚に価する市民だとする証言が洪水のようによせられたために、ハウゲに対するその他の容疑は、ついに却下されたのであった。

ハウゲは控訴した

 2ヶ年アーケルスフース(AKERTHUS)で重労働に服することは死を意味することをハウゲは知っていた。そこでハウゲは、対英開戦後オスロに最初に設けられた最高裁判所に、彼に下された判決を不当として控訴した。彼はまた友人達の勧告にしたがって、弁護士を通じ、国王に嘆願状を提出した。そして、最後の判決を待つまでのまる1ヶ年間、なおもハウゲは身をきざむような苦痛に耐えなければならなかった。

最後の判決

 1814年の12月に、ハウゲは、裁判費用1000リクスダラー(RIKSDALER)の罰金を支払うだけでよろしいという判決を受けた。彼の友人達の募金によってただちに罰金は支払われた。彼は10ヵ年と2ヵ月の獄中生活から、初めて完全に自由な身となった。この最後の判決によって、彼に向けられていた悪意にもとづく一切の容疑は晴れ、ハウゲの罪名は、「放浪禁止違反」と、「教職者に対する悪口雑言」の2つに限られた。オルディング(ORDING)教授は、この点について、次のような重要な結論を下している。
告発理由は消滅した。事件は最終的に分析してみると、彼が生涯をかけた召命が罰せられたことになる。彼は平信徒として、庶民の眠っている霊的生活を覚醒させるために、全国にわたる伝道旅行をやったのである。この平信徒伝道が狂信主義と見なされ、そして処罰されたのである。

獄中生活の苦悩

本章ではハウゲが直面した獄中生活の模様を、実情にもとづいてくわしくしらべ、彼の健康と、道徳性と、霊的生活から奪った受難の程度を明らかにしよう。
 最初の2ヵ年は最悪であった。ハウゲのような八面六臂の活動家にとって、とつぜん、独房にちっきょを命じられることは、拷問にひとしかった。しばらくして、彼は読書を許された、しかし1807年まで、彼は執筆することを許されなかった。モルトケ伯爵が工作してミッケル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)に兄との面会を許すまで、ハウゲを訪れる少数の友人にさえ面会は許可されなかった。そのような場合、守衛や、看守によって、会話はいつも盗聴されていた。

「1年たったが、その間私はたった3回、新鮮な空気を吸っただけで、後はうす暗い壁にかこまれた、不健康な牢獄の中で暮らした」。そして病気になった。それが、ハウゲの健康状態の悪くなり初めだった。そのことはハウゲが後になって書いた苦悩の回想記から知られる。

 この部屋は、不健康で、ばいきんのうようよする、有害なよどんだ空気でみたされていた。私のような屈強な肉体と健康の持主が、徐々に健康を失ったのはそのためだった。私は血液障害、寒胃?、おこり、リュウマチズム、癌?痛、壊血病、水腫、便秘、神経過敏に悩まされた。その結果全身が腫れ上り、顔面は黄色から蒼白となり、空気と天候の変化に対する奇妙な感受性をもつようになった。これらの病気のために、私は毎日悩まされつづけた。2人の医者の努力、私自身の食事についての注意、そして出来る限りの運動も、ついに治療的効果をあげることにならなかった。

 一般には知られていない事実だが、1806年に、ハウゲが釈放の嘆願をした時、彼は自ら、伝道旅行を中止してもよいと言っている。もし釈放されるなら、亡命者として国外に追放されてもよいとも言っている。この事実は、神の召命に対する忠誠心が弱くなっていたかのように見える。まもなくハウゲが霊的な後退を示していたことを明らかにするであろう。しかしこのことは、牢獄生活がどんなに耐え難いものであったかを物語ることにもなろう。「自由を失うことによって、人間は一切を失うものです」とハウゲは国王に書き送った。その国王が、平信徒の伝道説教を非合法的行為と見なしていることが判明した時、ハウゲは失望し、彼の苦難に対して、違った判断を下すようになった。

 ハウゲはまだ若かったので、愛する神と隣人への奉仕を中心に、いつも物事を考えていた。彼の健康状態が徐々に悪くなるに従い、彼の判決が下る前に獄死する危険があった。1797年にクリスチャン・ロフテゥフス(CHRISTIAN LOFTHUS)が会ったように、彼が釈放され健康を恢復した暁には、彼はスウェーデンにとっての祝福となり得た可能性があったし、国内情勢の変化いかんによっては、祖国に帰って、彼の事業を、同胞の間で再開し得たかも知れない。

 ハウゲが陰惨な牢獄の1室で座して、独りで苦しんでいた時、彼の霊的活力に後退が見られることを怪しむのは当たらない。彼の牢獄生活の最初の2ヵ月が苛烈なものであったことを思う時、すでに1807年に、彼が霊的活力の復活を見せていることは、注目に値する。ハウゲが牢獄から書いた手紙によると、彼がいかに不必要な心配と、邪悪な思いに悩まされたかが判る。「私は経験から語るんだが、何もさせないということは、悪魔の工作であるにちがいない」彼の聖書研究への興味は下火となり、彼の記憶は鈍くなり、彼の思考力も不鮮明になった。これらの事実をおぼえて、ハウゲがそのころ彼の弁護士を通して、釈放の嘆願状を出した事情を汲むべきであろう。

 ハウゲが、その信仰を啓発された宗教上の愛読書の差入れは許されなかった。彼の信仰を破滅させようと企らんだ敵対者の方針だったのである。彼はこう書いている「後になって私は本の差入れを願った。それは買ったものもあったし、借りたものもあった。獄吏が新聞を見せてくれていたので、新聞の出版廣告を見ては、興味をひかれた本を注文したり借用を申しこんだりしたのであった。私はあらゆる種類の著書を読んだ、宗教、科学、法律―――漫画まで、」

 ハウゲは後日、彼が著した「宗教感情」の中で、当時の感想についてくわしく述べている。彼はいろんな本から何かを学びとったと言っている。それでもそれぞれの本について価値批判をしており、ボルテールの本などは、もっとも価値なきものだと言っている。聖書を曲解し、キリストとその奇跡について、自然科学的な解釈を下している書物は、最悪の読みものだとも言っている。

 私はそのような著述を信じてはいなかったけれども、悪意にみちた悪魔は、それらの著書の中で、私を陥入れる機会をねらっているようだった。私は告白するが、それらの反宗教的な本を読んでいるうちに、私は小教理問答や、聖書のような、純粋なキリスト教書を愛読する興味を失ってしまったことに気がついた。
 ハウゲ自身が、この種の読書から被害をうけた事実は、その証言によって明らかであるが、彼の信仰にゆるぎがなかったことは次の言葉によってみとめられる。「私はあのような著作を信じない」。誘惑されたということは、捕らえられたということではないだろう。さらに注目に価することは、彼の生涯を通じて、この時に初めて、神学や説教と直接関係のない広い領域にわたっての知識を検討する機会をもったということである。彼は啓蒙運動の原理が、神の家の破壊をくわだてる意図をもつものでないことに気がついた。職業の自由、信仰と思想の自由、最大多数の最大幸福等々、人間愛を理想とする啓蒙運動のプログラムの中に、ハウゲが彼自身の生涯をかけた計画を見出さなかったはずはない。
一方、ハウゲが獄中で読んだ書物の消極的影響と見られることがらもある。この視点から、ハウゲが1809年に製塩事業に従事していた当時、彼に会った彼の古い友人達が「精神の変化」にふれたと言っていたことをバング(BANG)は記録している。彼が集会をもたなかったことが変だったのではない、もっと悪いことは彼の「認識が拡大されていた」証拠だった。彼は旅行し、日曜毎にひげをそった。彼は以前のような粗末なものでなく、立派なものを編んだ。ハウゲの「拡大された認識」は、彼の生涯終りまでついていたようである。それは彼の霊性の後退を示すものではなかった。彼は危険な霊性の試練を乗り越え、中心的な問題に思索を集中して、より円熟した人間となって行った。

 ハウゲの獄中生活を、かなり楽なものであったように描いている人々も数名ある。モルトケ(MOLTOKE)伯爵は、最初の年に、ハウゲの兄弟の面会を許している。1807年の春、弁護士のルームホルツ(LUMHOLZ)は裁判官のブル(BULL)を訪ねたが、その時の彼の報告に驚いたブル(BULL)は、ハウゲのためにすぐに行動を開始した。ルームホルツ(LUMHOLZ)は言った。「これは私の意見だが、ここでは確かに大変な不正が行われている。もしこの男の殉教に早く何らかの終止符をうたなければ、法廷で働く人々は、殺人罪の責任を問われることになろう。この表現は決して言いすぎではない。彼は巨人的な体力の持主だった。それなのに今では完全に参っている。彼のケースが今までのように延引に延引を重ねるなら、彼は法廷で判決をうける前に死んでしまうであろう」

 裁判官のブル(BULL)は、信念のために入獄の苦をいとわないこの人物に、前々から興味を抱いていたし、今では彼の個人的努力によって、ハウゲは新鮮な空気にふれるチャンスが與えられていたのだ。1807年の初めごろにハウゲに與えられた執筆の自由も、おそらくブル(BULL)の努力によるものであったであろう。2人は親友の間柄となり、ハウゲはしばしばテェーイェン(TǾYEN)にあるブル(BULL)の豪華な邸宅へ招かれて客となった。

 裁判官のブル(BULL)氏ばかりではなく、オスロの警察署長ヴゥルフスベルグ(WULFSBERG)と、彼の後継者バイデマン(WEIDEMANN)もまたハウゲに対する同情をひれきした。ハウゲがロルフセェイ(ROLFSǾY)にいた年とった父を尋ねることを許されたのもエイケル(EIKER)の製紙工場を訪れることを許可されたのもバイデマン(WEIDEMANN)の努力のお蔭だった。ハウゲは彼について「出来るかぎりの自由を私に與えてくれた」と書いている。1809年に、製塩事業という愛国的使命を終えてから、再び監禁の身に帰った後、ハウゲがメーレル通り(MǾLLERGATEN)のハルボール・アンデルセン(HALVOR ANDERSEN)の家に時々宿泊したことはよく知られている。1810年にミッケル・ニールセン・ハウゲ(MIKKEL NIELSEN HAUGE)はアーケルス(AKER河にあるバッケ(THE BAKKE)農場を買った。その年の秋、ハンス。ニールセンがひどい病気にかかって直った後、彼はこの農場の経営を弟の手からひきついだ。1811年の秋には、そこに彼は自分の家をたてた。

 イプセンは英国によって封鎖されていた当時のことを書いた叙事詩テェルイェ ヴィーケン(TERJE VIKEN)の中で「国内の農作物は不作で、人々は食糧に困った」と書いている。ところがハウゲのバッケ(BAKKE)農場では、どうしたことかジャガイモの大収穫をあげた。彼はアーケルス(AKERS)河に製粉工場をたて、穀物との交換条件でアーケルスフース(AKERSHUS)兵営のために、穀物をひきつづけた。彼はまたノルウェーの西部に住んでいる友人から魚類を買った。これらの主食を確保することによって、当時ノルウェー全土の人々が痛感していた飢餓から、近在の人々を救ったのである。バッケ(BAKKE)農場は、戦時の困難時代を通じて、何百人という飢えた人々を養った。

 ハウゲは1817年までバッケ(BAKKE)で住んだ。それは幸福で有意義な歳月であったが、彼が完全に不安から解放されたのは1814年になって、法廷で最後の判決を聞いてから後のことである。彼が体力を恢復し、バッケ(BAKKE)農場が、彼の経営下でますます収穫をあげるにしたがって、彼は誠実な旧友との親交を回復し、彼のハートは喜びで燃えるのだった。1810年に彼がわずらった病気のため、彼はひとたびは死に直面したのであったが、そのころ彼が書いた手紙からうかがい知りうることは、どれほど彼のような偉大な人物でさえ、苦しみと悲しみからいろいろのことを学んだか知れないということ、またそのために、愛する人々の霊性の幸福を思う願いを深くしたか知れないということである。彼はひと言も、迫害者に向って不平を言っていないし、彼の友人達に向っては自省すること、へり下ること、隣人に福音を伝えることを忘れないようにと忠告している。

 われわれが暗黒の世界から救い出され、主の聖火に注目するようになるまでに、どれほど神が、我々の心を動かそうとして、働きつづけられたことか。われわれはこの世を盲目的に愛して、神から離れ、神の愛をわすれていないだろうか?私の心の中にはただひとつの願いがある―――それは1800年と1801年に見られたような聖霊による信仰復興の焔が、もういちどノルウェー全土に燃えあがる日を見るまで、生きのびたいことである。

12章 ????

第13章 友らはその日を待ち望んで祈った

 ある日ヨン・ソルブェールデン(JON SORBǾRDEN)は、彼の家族と召使たちを集めて礼拝をもった。彼が聖書の一章を読んだところ、霊感にふれて小さな群の前で奨励をした。しかし彼はふと口ごもった、法律で平信徒がこのようなことをすることを禁じていることを思い起こしたからである。彼はがっかりして泣いた。キリスト者の証言がこの国では禁ぜられている霊的な束縛を思い越したからである。
 平信徒による信仰復興運動は、ハウゲが捕縛される前から痛手をうけていた。1804年12月1日、政府は宗教的集会に対する制限令の施行を厳重にするように命じた。ハウゲが取調べを受けていた間、平信徒が活動をつづけて官憲を刺激しては、ハウゲのためによくないと考えられた。ハウゲも牢獄から「王の意志にさからってはならない」と同志達に警告を與えた。ヨン・ハウグバルデゥスタッドゥ(JOHN HAUGVALDSTAD)は短期間の伝道旅行を2回試みた。ある地区では彼の友人達が、集会禁止令を破りさえした。キリスト者の平信徒運動は、個人的、家族的礼拝にとどまるようになった。聖書とキリスト教書類を愛読することはつづけられたが、兄弟達の互いの建徳のためには、私的な会話に訴えること以外に方法はなかった。

 1805年の7月、ハウゲの著書は、出版されたものも、未刊のものも、すべて没収するようにとの指令が出された。ハウゲの著書に対する苦情を受け取っていた国務省の態度としては、これは予期されたことだった。ところで政府の指令を実施するに際して多くの地方の司法官や代理者に行過ぎの行為があり、家毎に捜査をつづけて、ハウゲの著書や、手紙を片っ端から没収した。この官憲の行為は全ノルウェーを震撼させた。ある者は所有のハウゲの著書を隠し、ある者は頑強に抵抗して没収をこばんだと言われている。ハウゲの本が水の上を流れながらいたまなかったとか、火中に投じても焼けなかったなどという疑わしい噂が流されたのはこのごろである。全体としてハウゲが獄中に監禁されていた年代は、ノルウェー全国を通じてキリスト者にとって閑散な時代であった。彼らの霊性の友であり兄弟であったこの紳士のために流された涙や、主の前にささげられた祈りについて残された記録はない。失望させられるこの年代の霊的損失について誰も確実なことをはかり知ることは出来ない。確に福音宣教の働きは停止した。それは嘆かわしい損失だった。けれどもシベルステン(SIVERTSEN)が指摘しているように、ハウゲ派の理想はキリスト者の生活と行為であり、巡回伝道をすることではなかった。当時は回心した人々が神を恐れて、日常生活の中で、謙遜に主の恵みの証言をすべき時代であった。どちらを向いても、世俗主義と、なまぬるい信仰生活だけが目につく時代だった。しかしハウゲ派の人々は、全体として信仰に徹していた。

 ハウゲに短期間ではあったが釈放が與えられた1809年になって、ハウゲと同志達との接触がひんぱんになってから、新しい望みがもういちどもてるようになった。1811年後、バッケ(BAKKE)に住んでいたハウゲを訪問した友人達は、彼の励ましの言葉を、家郷に持ち帰った。ハウゲの手紙もまた、人々の間で回覧されて、喜びの涙で溢れる目で読まれたものである。

暗黒の中の光

 ハウゲに関する挿話の中で、もっとも愛着を感じさせるものは、多分彼の長期に渉る獄中生活の最初の年の出来事だったと言えよう。人々はハウゲの身辺に、そして福音伝道の全領域に、不祥なことが起こるようであってはならないとおそれ初めていた。ハウゲが獄中にある限り、将来のことは悉く暗黒に見えた。彼らは福音の光が、もういちど彼らの間で点火され輝き出るようにと祈って待った。

 1804年の12月のことだった。オスロの冬は灰色に包まれうっとうしくそして寒かった。雨がよく降り、日中もうす暗く喜びがなかった。ハウゲはひとり座ったまま、窓辺により、窓から人影のない街路を見つめていた。彼の目はふと汚ない溜り水に落ちて跳ねあがる雨だれに注がれた。長身の男の通りすぎる姿が彼の目をかすめた。ハウゲはその男の帰宅を待って食卓をととのえながら、彼の足音の接近を耳をそばだてて待っている彼の妻のことを心に描いた。それは外出が厭になるようなお天気の日だった。しかし少なくとも彼は自由の身であり、楽しく帰る家があるのだ。

 ところが、その男はふり返って後戻りを初めた。気がつくとその男は牢獄の窓を見上ているではないか。牢獄の2階には2つの窓があった。例の男は初めに右側の窓を見上げ、次に左側の窓に目を移し、さらにもういちど右側の窓を見上げた。ハウゲはハッとした。それは彼の友人だった、彼に会いに来たのだが面会を断られたのであった。彼はハウゲが2階の1室に監禁されていることを知っていた。しかしどの窓がハウゲの部屋なのだろうか?

 叫んでも路上の友に聞える望みはなかった。彼に「よく来てくれた」と無言の回答を與える方法はないのか?路上から見あげた場合、牢獄の窓は2つの陰影のつながりに見えるはずだ。そうだあの男はノルウェーの西部から来た男だ、旅装から判断してベルゲンの近くからやって来た男に違いない、とハウゲは想像した。もし彼がその永旅の目的を果さず、ハウゲに会えなかったと帰ってから人々に語らねばならないとすると、全く彼に気の毒である。

 窓から見下ろしていると、彼はなお路上を行きつ戻りつしている。落胆したその姿・・・ハウゲはふと気がついてローソクを握って窓辺を照らした。路上の友はハウゲの合図に気がつき、立ちどまって窓辺を見上げた。ローソクの火が揺れ、ハウゲの手が見えた。ハウゲはローソクの芯をつんだ。火は赤々と燃え上った。
 遠い山地からはるばるやってきたハウゲの友は、ハウゲの挨拶を知った。彼は心を躍らせながら家路へ急いだ。帰路、彼はハウゲの無言の使信を次々に語り伝えた。人々の前に輝き出るようでなければならないキリスト者は、一つの不純な動機を捨てなければならない。清められた光は層一層その輝きをます、そして、祝福の光を、夜の闇をついて遠くまで送る。
 この小さな挿話は数代にわたる神の子らの間で、いく度も用いられて、彼らは、その信仰の兄弟、ノルウェーが生んだハンス・ニールセン・ハウゲのよき音信を、引きついで来たのである。

次回「第4部 ノルウェーの教父 14〜17章」へ続く >

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