百姓伝道者ハウゲの伝記 第4部 14〜17章(おわり)

第4部 ノルウェーの教父 1814〜1824年

第14章 バッケに住む自由人

ハウゲの富み

 ハウゲ事件のために提出された無数の文献の中に、ノルウェーの最高の地位にある人々に属する証拠品および証明書があった。弁護士ルームホルツ(LUMHOLZ)は1810年に、これらの物件を塊集したが、ハウゲと彼の事業に対する最も信頼の出来る一般感情が、彼にとって有利であることを発見した。ハウゲはこれらのものを、「教職者」と「文官」の2部門に分類して塊集している。それらは圧倒的な証言でみたされている。どれもこれもハンス・ハスゲとその同志達は、みな道徳性の高い模範的市民であり、彼らの宗教上の諸集会は有害なものでなく、みなそれぞれの天職に精進して、その居住地域内で信頼されている人々であることを立証するものであった。

 引用された証言の執筆者の中に6人の監督、王宮のチャプレン、4人の大学の部長、1人の牧師、1人の内閣の閣僚(ヴェーデル・ヤールスベルグ(WEDEL-JARLSBERG)伯爵で、前のブスケルーデゥ(BUSKERUD)の総督)そして4人の地区の総督や長官があった。

 これらの人々が書いたハウゲについての称賛の声はノルウェー全国民の間に、疑問の余地のないハウゲの人格的価値を確立した。ハウゲがその著書の一冊の中に、これらの証言を取入れている事実は、彼にとって、これらの高位高官にある人物によって、彼の伝道と事業が支持されていたという事実を、彼が重視していたことを意味する。ところで、ハウゲが出獄を許された時、そして彼の所有財産のしめくくりをした時、彼の財産といえるものは、無形なものに限られていることが判明した。彼ももはや以前の健康体ではなかった。長期にわたる監禁生活で、彼の肉体は全く弱くなっていた。彼の財政上の所有物は、ほとんど無にひとしかった。

 ハウゲが1804年にホクスン(HOKKUSUND)からオスロへ船で移送されるその前でさえ政府は彼のベルゲンにあった所有財産を没収したのである。ベルゲンにはハウゲ所有の家があり、船と貸物があり、相当量の塩があった。それらは競売にふされ9000リクスダーレル(RIKSDALER)になった。戦争による貨幣価値の変動で、この金の価値は6分の一すなわち1500リクスダーレル(RIKSDALER)になっていた。1816年の6月になって、ノルウェーが自国の憲法をもち、内政処理の独立をち取った時、10リクスダーレルを1スペシエダーレルとする幣価の切り下げが行われた。ハウゲの親族のものが、没収財産の返還を要求した時、それは144スペシエダーレルになってしまっていた。

 ハウゲが逮捕された時、彼は2リクスダーレルと2マルク(MARKS)250ペニヒしか持っていなかった。3週間の間にハウゲはその金を使いはたしてしまった。それからの彼は、手袋を編んで食費と。時々買入れた本代を稼いだのであった。

 彼の没収された書籍は返還されることになってはいたが、実際彼の手にもどった数冊の書物は、みな価値のないものばかりだった。バッケ(BAKKE)農場は、彼の弟のミッケル(MIKKEL)が彼のために買い取ってくれたものだった。彼が遂に自由の身となった時、彼の妹の(KAREN)とその夫は、彼に、1000リクスダーレルを貸し與えて、オスロ貧民基金(THE OSLO POOR FUND)と、裁判費用として900リクスダーレルを支払わせた。後になってノルウェー政府は、ハウゲが受けた損失をある程度カバーする補償金を支払った。

1814年のクリスマスの手紙

 ハウゲが最後の判決と自由を得たのは1814年の12月23日のことだった。彼がその親しい友達の間に急いで書き送った手紙には降誕節気分が満ちあふれている。

「きょうの私はあなた方に私の喜びをわかちうる身分になったので、私はいそいでこの手紙を書く、私は最高裁判所の判決で、一切の懲罰から放免された。私が罰金として1000リクスダーレル(RIKSDALER)を支払わされたのは、私が神のおとづれを語ったためと、私が著書の中でぶしつけな表現を使ったためである。」彼の手紙には賛美と感謝がこだましている。彼はその友らに対して「主のいいつくし難い恩恵のために、彼の聖なる御名をひろめる御業に参加しよう ―― 神を愛し神をおそれる者らのために、天に貯えられている富は無尽蔵なのだから」と呼びかけた。いまだ救われざる霊のために彼がいつも抱いていた関心の度は変っていなかった。「何千という人々が神の救いの力を知らないでいるのに、われわれにそれが知らしめられているということは何という恵みであろう」

 ハウゲが彼に対する訊問の進行情況を報告するにあって、製塩事業に参加させるために彼に自由を與えたのはノルウェーの政府委員であり、その前後を通じて、彼を監禁しておこうとしたのはデンマーク政府であったことを、彼が心に留めている事実は興味あることがらである。彼の語るところによると、1814年になるまで、彼が自由になれる日があるとは思わなかったそうである。権威者のたったひと言で、彼のバッケ(BAKKE)の生活が、終幕になることを、彼は知っていたのだ。1813年に、彼に下された2ヵ年の重労働に処すという判決によって断腸の思いをさせられた彼は、彼の控訴の結果を待ちながらも、決して期待はしていなかったのである。

 彼はその手紙の中で、いつも彼のことを思っていてくれる友人達に対する感謝を、心いっぱいに告白している。彼はいつもキリストと一体であることを如実に感じていたし、彼自身の幸運を、神と教会への奉仕の限界でのみ評価するくせがあった。彼は、彼の「稀有といってもよい事件」が、最初と最後では全く意外ともいうべき結果になったことを、神の有難き摂理として、御名をたたえている。彼が1804年に、恐るべきかずかずの罪名をきせられ、徹底的な調査をうけた後で、結局1814年になって、単に2つの罪名の下に告発されることに落ちついた経路を回顧した時、神が真実を生かすために勝利を與えられたことの確かさを知った。彼が市民の義務を怠らせるような狂信的キリスト教を説いたという容疑は晴れた。金を巻きあげるために、宗教家の仮面をかぶっていたという容疑も晴れた。彼が子供達をおだて巡回説教家となるため家出をさせたという容疑も晴れた。彼が一部の教職者達に浴びせたきびしい批判は、全国の教職者達を対象としたもので、彼は革命を意図していたのだという容疑も晴れた。

 ハウゲの手紙はあふれる喜悦と神への感謝で終っている。

 わたしが釈放された暁、私は御名をほめたたえることを誓い、必ずそうするだろう。神よ、われに恩寵を與えたまえ。神よ、あなたの霊力と生命と喜びに、みんなが預かりうるように、そのためにもろともに、いと高き神をさんびしようではないか。わたしは主の名において、みなの者に挨拶をおくる。そして諸君が永遠を目指して、正しい生活をいとなむように!わたしは主に在って、あなたがたに対する熱心な教友として生きぬくであろう。

結婚と家庭生活

 1815年の初め、ハウゲが43才の時のことである。彼は肉体的に、もはや昔の彼ではなかった。巡回伝道を強行し得たあの健康は、もう彼になかった。8ヵ年にわたって、彼がノルウェー全土に試みた伝道旅行の際に、彼が全力をかたむけて説いた福音の中心課題は、キリストを家庭の中心におく家庭生活のいとなみであった。彼が始めから終りまで、常に参照したVӔR BARNELÆRDOM(われわれの少年時代に與える教訓、すなわち小教理問答)は、彼がキリスト者の家庭を、最良の教育センターと考えていた、その信念の現れであった。彼は口の重い独身者の男をつっついて、積極的な求婚者にしあげ、幾組もの結婚の仲人として成功した、羨ましい記録の編集もやっている。

 今や彼自身の番がやってきた。休む暇さえなかった伝道旅行の連続と、永い永い歳月にわたる監禁生活のために、彼には結婚のチャンスがそれまでにはなかった。バッケ(BAKKE)農場は、結婚生活を始める者にとって、理想的な環境であった。都合のよいことには、若い結婚適令期の女性がそこに住んでいたのである。彼女はアンドレア・アンデルスダッテル・ニーフス(ANDREA ANDERSDATTER NYHUS)で、4ヶ年もバッケ(BAKKE)農場の家政婦として働いてきた女性だった。ハウゲはロメリケ(ROMERIKE)の彼女の両親の家で集会をもったことがあったので、彼女の家族関係のこともよく知っていた。

 アンドレア(ANDREA)がハウゲの妻となったのは1815年の1月27日のことだった。結婚式の司式をしたのは王室附き牧師パーヴェルス(PAVELS)で、彼の日記を見ると、ハウゲのその後の半生に関する多くの興味ある事実が記録されている。彼がしばしばハウゲ家の賑やかな食卓のことをほめている事実は、「ノルウェー第一の健啖家」というハウゲに與えられた定評を裏づけるものであろう。

 結婚後1年もたたぬまに、ハウゲはこの貞淑な妻を失った。彼女は男子をハウゲのために生んで、1週間後に死んだ、12月のことだった。伝えられるところによると、パーヴェルス(PAVELS)牧師が葬式の司式の途中で、ハウゲの心中をかえりみないで、約1年前、棺がおかれているこの同じ場所に、花嫁が立っていたのだがと口走ってしまった、それは深い悲みの中にあったハウゲにとって耐え難い言葉だった。パーヴェルス(PAVELS)はそのことに気がついた時、ハウゲは倒れそうになっていたという。

 生まれた赤ん坊に、その日幼児洗礼が授けられアンドレアス(ANDREAS)と母の名をとって命名された。彼は後日、教職としてプレスト(PREST)の位置まで昇進し、ノルウェーの教会の中で、尊敬される地位をしめた。彼はその在任中に外国伝道を盛んに奨励し、特別な努力を払っている。ヴェーレ(WELLE)によると、彼はノルウェーの牧師間でも、もっとも尊重されていた者のひとりであり、目醒めた人々の間で、限りない信頼をよせられていたということである。

 妻をうしなってから2日の後に、ハウゲが友人達に書き送った手紙は、彼が書いた文章の中で、もっとも深刻で、また情味にあふれたもののひとつである。ハウゲは大きな喜びや、大きな悲しみを経験する度に、本能的に、彼に所属した信者のサークルに訴える傾向があったようである。1800年に彼の妹が召天した時、彼は同信の友らに手紙を書いている。彼が永い獄中生活から釈放された時にも、そのような手紙を書いている。それは彼が自分が経験した大きな喜びがどんなものであったか、それを同信の友らに知ってもらいたいという気持のうかがえる適例のひとつである。「ハウゲは信者の交りの中で生きぬいた。彼は信者のために、また信者とともに繁栄することを望んでいたが、彼自身のことはいつも忘れていた」

 釈放された後のハウゲは、従前にまさって平信徒伝道の指導的精神の権化として仰がれた。放浪禁止令はいぜんとして、平信徒の積極的な行動を制約したが、ハウゲが無罪放免になってから後は、将来に向っての望みが湧き上りつつあった。ハウゲはバッケ(BAKKE)の農場から、同志達の全活動を監督し、より強力な奉仕団体に発展するよう指導した。それには巡回説教よりも、???(物心両面のバランスのとれた生活指導)によって、よりよく本来の目的がはたされるように思えた。自然と彼は手紙と著書出版を武器として使った。ハウゲがその農場で指導していた小集会は、時には遠来の訪客をもまじえて、より緊密な個人的接触と友愛が生れる場所となった。

 バッケ(BAKKE)農場自体の成功は、やがてキリスト者の生活態度を誇示するものとなった。バリバリ働き、倹約出来るものはいっさい倹約する生活態度、それは農場でも利潤を生み、家庭でも利潤を生んだ。バッケ(BAKKE)の農場の規模は2,3人の働き人を必要とした。みんなハウゲの愛情にみちた監督下に、家族的生活を楽しんで、苦楽をともにした。ハウゲの妻の死は、赤ん坊を母なし子にしただけでなく、多くの問題を残すことになった。多くの働き人をかかえる大家族の食事、衣服のつくろいもの、お洗濯それをやってのけるには、よほど手腕のある婦人の献身的努力が必要であった。

 これが表面から見たハウゲの環境だった。彼ががまんしていた心中の孤独、そして憂鬱、彼が祖国全土に信仰の霊火をもういちど燃え上らせようと祈っていたことをも考慮する時、彼の心中の苦悶は、誰にでも察せられよう。農場のためにも、幼児アンドレアス(ANDREAS)のためにも健康を害していたハウゲ自身のためにも、彼の再婚は考えなければならないことだった。

 1817年の1月になって、ハウゲは再婚した。妻の名はインゲボルグ・マリエ・オールスダッテル(INGEBORG MARIE OLSDATTER)である。彼女はエイケル(EIKER)の製紙工場で働いた数年間に、何をさせてもよくやる女としての評判をとった女である。ミッケル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)の妻が、ハウゲの妻アンドレア(ANDREA)の出産の前に、お産の手伝いにバッケ(BAKKE)へ送ったのだった。1月22日彼女はハウゲの妻となった。パーヴェルス(PAVELS)は彼の日記にこう書いている「今朝わたしはハンス・ハウゲと、その美しい花嫁との結婚を荘厳なものとした。」

 インゲボルグ(INGEBORG)は、彼女に與えられた新しい責任を立派にやってのける過去の経歴と才能をもっていた。彼女は深刻に物事を考えるキリスト者を両親に持っていた。ハウゲ派の家で雇われたこともある。そこからエイケル(EIKER)の製紙工場へ送られ、そこの多忙な、しかしながら幸福な生活の一部となっていたのである。彼女はバッケ(BAKKE)の大仕事を、急がずあわてず立派にやってのけた。彼女は温和な性格で、思慮深かった。彼女がもっていた多くの才能は、訪問客の、ほめたたえるところとなった。彼女は織物が上手で、美しい作品をつくった。そして多くの若い娘達にその技藝を教えた。インゲボルグ(INGEBORG)はハウゲの死後久しく生き残ったが、彼女が生んだ3人の子供は、比較的若くて死んだ。ニールス(NIELS)は5歳で、オリーネ(OLINE)は 3歳で、そして2番目の娘はその父の死後2ヵ年目に死んだ。インゲボルグ(INGEBORG)はハウゲの死後再婚し、1872年に召天した。彼女は信仰によって、幸福で、確信にみちた生涯を送った。

第15章 ブレッデゥヴェト農場 1817〜1824年

 1817年の春、ハウゲはブレッデゥヴェト(BREDTVET)農場を買った。それは彼の最後の地上生活の場となった農場である。バッケ(BAKKE)は、ますます発展して行ったハウゲと同志の家族の必要を満たしうるほどの大農場ではなかった。ブレッデゥヴェト(BREDTVET)農場は、巧妙に工夫された、生産性の高い理想的な農場経営のモデルとして、社会に奉仕することになる必然性をもっていた。ハウゲほどノルウェー全土を隅から隅まで旅行し、農場経営についての広い観察と、豊富な資料を持っていた者は数少ないであろう。ブレッデゥヴェト(BREDTVET)に移住してから後のハウゲは、キリスト者の理想を集団生活に活かしてみたいという特異な彼の多年にわたる夢を実現しようとして、あらゆるチャンスを利用した。

いろりとホーム

 ブレッデゥヴェト(BREDTVET)は、ハウゲにとって、最初の会心のホームとなった。テューネ(TUNE)にあったハウゲ農場で彼が少年の日を過ごしてから、神に選ばれた巡回伝道者として放浪の生活をおくり、その青壮年時代を、楽しい家庭生活を顧みないで暮してきた彼である。その彼も、まずバッケ(BAKKE)で、それから今はブレッデゥヴェト(BREDTVET)でおそまきながら結婚の問題や、親の立場や、家庭生活の諸問題についていろいろと教訓を学ぶことになった。いずれの場所でも、彼は愛する者を奪い去る死の使いの介入にあった。彼はかつての強壮な肉体を失って、人間の弱さというものについて、個人的な体験をした。彼は痛みと疲れを知ってから、健康の有難さを発見したのである。彼が1820年にわずらった重病の場合のように肉体的などうにもならない弱さを通して、彼は忍耐を学び、神のよき意志を信じてあきらめることをも学んだ。彼はあらゆる人生経験を通じて、喜びにも悲しみにも、やさしく彼に奉仕してくれる妻をますます愛するようになった。

 父としての彼は2人の愛児を奪われる不運な目にあった。彼が最初の妻が残した愛児アンドレアス(ANDREAS)を愛した愛はことさらに深かった。アンドレアス(ANDREAS)は1815年に、彼らがまだバッケ(BAKKE)に住んでいた時に生まれた。ハウゲ家がブレッデゥヴェト(BREDTVET)に移った時、彼は僅か2歳であった。父が1824年に死んだ時、彼はようやく9歳であった。彼は偉大な説教家であった父の家族的な黎明期において、父のよい遊び仲間であった可愛らしい子供だった。ハウゲの伝記を書いた人々の中に、父と子がブレッデゥヴェト(BREDTVET)の美しい丘を手をとりあって散策している美しい風景を描いていない者はない。1世紀前のノルウェーの読書界に正確で美しい読みごたえのあるハウゲの伝記を書いて紹介したのはヤーコブ・B・ブル(JACOB.B.BULL)だった。彼が書いたハウゲ伝の第19章に、次のようなハウゲとその愛児との美しい描写がある。
「それはアーケル(AKER)渓谷に春が訪れたころのことである。せきれいと椋鳥がもうとっくに飛び廻っていた。雷鳥の雄がノールマルケン(NORDMARKEN)(有名な森林公園)の周辺でやかましく囀り、太陽の光をいっぱい吸いこんだ朝の空気は、春の喜びでおどっているようだった。草の葉はますます青く、たんぽぽやアネモネがいっぱい花を咲かせていた。色の乱舞だった。

 森の中の小鳥達は、みんな総出で、悲しげにふるえる笛の音が芽を吹いた枝から枝へと伝わり、やましぎの鋭い泣き声が、ロマンチックにひびいた。
 ブレッデゥヴェト(BREDTVET)の広々とした野原を横切って、温かな春の日射しを浴びながら歩いてくる2人がいた。青白い顔、おだやかで平和な表情、口許に一抹の悲しみをた たえながら、5、6歳の少年の手を引きながら歩いてくる2人、それはハンス・ニールセン・ハウゲと愛児アンドレアス(ANDREAS)だった。

「お父さん。花が目をさましたよ」アンドレアス(ANDREAS)は花の上にかがみこんで、そのひとつを摘んだ。「そうだな、とうとう目を醒ましたね」ハウゲの顔に微笑が浮かんだ、少年の目は父を見上げた。ハウゲの顔に微笑みが浮かんだ、少年の目は父を見上げた「誰がお花の目を醒まさせたの?」「神さまだよ。アンドレアス」彼は蒼白い顔をほころばせながら、息子を見つめた、彼は満足だった。「どこに、お花のベッドがあったの?」少年は考え深そうに尋ねた。「雪の中にさ、神さまは雪の毛布を、お花の上にかぶせておきなすったんだ。その下で冬の間、お花さんは眠りつづけていたんだよ。」少年はまた考える「ぼくらもまた冬中、眠ることがあるの?」父を見上げる小年の目は大きく開けていた。ハウゲの痩せ細った顔に、不思議な憂鬱のかげが走った。「そうだよ、アンドレアス、われわれが死んだ時、みんなそうするんだ。神さまが雪の毛布をかけて下さるんだ。そしてみんな眠るんだ。」「それじゃあ、ぼくらのベッドは地の下にあるの?」少年は驚いたかのように問うた。ハウゲは愛児の手をとりながら、「そうだよ。われわれがお墓といってるところが、そこだよ」「冬はきっと寒いだろうね、お墓の中は」少年の父を見上げる目は不審げである。「そんなことはないよ。あの下には心地のよい場所があるんだ」2人の間に、永い沈黙がつづく。「だけど、太陽が現れると、ボクらもまた顔を出すのネ、そうだろう」「その通りだ、息子よ、お前はお花が地面の下から顔を出したのを見たね」「だけどさ、どうしてそうなるんだろう?」少年は興奮して父に問う「お花は、その実の中に生命を持っているんだよ、判るだろう」ハウゲは少年の澄んだまなざしに見入る「ああ、そうか!」少年は父の手を取って歩き出した。永い沈黙がまたつづいた。「お父うさん、もうぢきに地面の下に行くの?」とつぜん少年が尋ねた。「そうだよ。お花がその活力を失う時、枯れてしまうだろう。そして春がまたやってくるまで、地の下で眠るようにな」「それじゃ、春はまたいつくるの?」少年は足をとどめて父を見上げた「神さまの太陽がまた輝き初める時だよ、神さまの時がくる時にさ」「そうだな、神さまの時はきっと来るんだね、神さまはいい方だもの」そうして2人は永い道を、一緒に歩いて行った ―― ハウゲと、彼の生き残ったたったひとりの息子は・・・

模範的農場

ブレッデゥヴェト(BREDTVET)での生活もまた、理想的生活のひとつの見本であった。神の言は、すべての活動の中心におかれていた。ハウゲは全従業員を、家庭礼拝のさんび歌合唱と祈祷に招いた。その日その日の仕事の上に、天来の祝福を彼は祈り求めた。ハウゲが生涯守った格言通りに、朝の食卓での感謝の祈りの後で、能率的で努力的な一日の労働がつづいた。それこそハウゲ農場の繁栄を約束するものであったし、訪問者のすべてに、敬虔につきものの満足心は、正直な勤労生活によって得られるものであるとの印象を與えた。

ハウゲは、職業に対する正しい態度と、信仰的脱線という問題について苦々しい体験をしていたので、とかく新しい回心者が此の世的と見なしがちな、日常生活の諸要素を聖化するためには、宗教的情熱の方向づけについて指導が必要であることを痛感していた。ハウゲと彼の同志達は、ノルウェーの農民をかどわかせて、耕作することを捨てて、祈祷会へ行かせるようにし、ノルウェーの経済界に打撃を與えたと非難されたのは、つい最近のことであった。その非難が的外れであることは証明されたが人生を物心両面に割り切った考え方を抱く人が、ハウゲ派の周辺にいた。彼らは霊的事実を優先的に強調したハウゲ派にとっては異端的存在であった。ブレッデゥヴェト(BREDTVET)の農場は信仰生活を、祈祷と聖書朗読と証言の生活に限定する、極端な生き方を説教や著書による宣伝にまさって、より有効に否定するものであった。オスロの北東にあたって起伏する丘陵に位した彼の農場は、霊的生活と、農耕生活との調和を生かした模範的農場として、その名を天下にとどろかせたのである。

宗教活動の本部

 ブレッデゥヴェト(BREDTVET)の農場は、第三の任務をも果たした。それはハウゲのチームであったし、キリスト者の生活の模範を示す場所でもあったが、同時にそこは全国的な宗教運動本部の所在地となった。こういうとハウゲの運動は一大組織をもっていたような印象を與えるが、実体はそうでもなかった。ハウゲは1821年に「われわれはいままでに何の記録ももたなかったので、私にしても、われわれの仲間の誰にしても、同志が何人いるのか知っているものはいない」と書いている。しかし、ハウゲの指導力と権威を問う者はなかったし、彼の農場が、同志達の大集会場として使用されていたのは、偶然の出来事ではなかったのである。ハウゲと彼を訪問した一婦人との間で交わされた会話によって、ハウゲがブレッデゥヴェト(BREDTVET)に農場を開いた目的が明らかにされている。「あなたが大農場を経営して苦労される理由が私には判りません」と彼女は言った。「見方を変えて下さい。あなたは今わたしに会いに来られたが、まもなく多勢の仲間があちこちから集ってくるでしょう。私は彼らを愛していますし、彼らは私を愛しています。それだからお互いに話し会う時間をたくさんもつことが必要なのです。もしそれが出来なければ、お互いが満足しうるまで話し合うチャンスをつかむまで、ここに長居することが出来ないでしょう」

 ハウゲが考えていたキリスト者のための計画は、そのように単純なものであったが、驚くべき団結的能力がそこから生まれたのである。そこでは個人個人の神とのつながりは最高だった。ブレッデゥヴェト(BREDTVET)の農場は、かくして個人的な救いの問題を解決する格好の話し合いの場所となった。複雑な煩悶をかかえて悩みながら理解と同情と適切な助言を與えてくれる友をもたない人々は、重荷をおろすために遠い処から、ブレッデゥヴェト(BREDTVET)にいる親友達に会いに行った。ハウゲ自身悩んでいる人達の相談相手として、生まれながらの才能をもっていた。彼はその幅広い生活経験によって、みんなの者から霊の父として尊敬され、その謙遜な態度のゆえに、誰からも愛された。彼はいつでも偽りなき同情をもって、彼の許へやってくる人々の相談相手になった。

 ハウゲは彼が活動を開始したころから彼自身の霊的諸経験を書きつづることをさけた。それは傲慢のように思えたし、兄弟達が彼の経験を絶対的なものとして盲従することがあってはならないと思ったからである。ところでブレッデゥヴェト(BREDTVET)時代に彼が発見したことは、試練をうけて悩み苦しんでいる兄弟達にとって、それでも神の恩寵のうちにあるのかどうかという疑いと惑いに苦しむ時、彼自身牢獄の暗黒の中で光を求めつづけた体験を語ることが、大きな助けとなることであった。彼が出版した後期の著書の一冊の中で、彼が1796年の4月5日に経験した決定的な霊的体験について語っている。彼はその日、神の前に彼の全意志と全生涯を明け渡したのである。それは神との個人的な交りと、神への服従から生まれる、喜びと信念にくらべうるものは、この地上にないことを知ったからであった。彼のこの時の体験談を読むことにより、また聞くことによって内面的な平和を獲得した者は少くない。

 ハウゲの友人達が、彼に会いにきたように、愛児を伴ってこの偉大な人物に会わせるためにやってくる父親達も多かった。青年達は助言を求めて、古い友だちは彼の証言によって生かされた御礼に!彼らはハウゲの口から、かつてノルウェー全土で聞かれた精神と実践生活に訴える正義の訴えを、じかに耳にしたのである。彼の偉大な心は、より強烈な同情心で燃えていたし、青い目は老年の熱意で輝いていたし、彼の鋭い感覚は人々の霊性の内奥にかくされている秘密を見透していた。彼に欠けていたものは、青年の熱心さと健常者の活動力であった。
 彼は牢獄から釈放された後、彼自身の持っていた富と幸福について、彼の「旅行記」の中でこう書いている。「私は祖国で最も人々から尊敬されている知識人の友情と敬意を集めているんだと思って自惚れている」と。これは彼がバッケ(BAKKE)に住んでいた時もブレッデゥヴェト(BREDTVET)に移ってからも、同様に言えることであった。ハウゲを訪問した有名人の中にはオスロにそのころ出来た大学の神学教授ウベレド・ヘルスレブ(SVEND HERSLEB)やヨハンネス・ステネルセン(S. JOHANNES STENERSEN)等などがあった。伝えられるところによるとヘルスレブ(HERSLEB)教授は、ハウゲが書いた後期の著書を手伝ったらしい。大きな宴会の席上でステネルセン(STENERSEN)教授が、平信徒伝道の根拠についてハウゲと論争したことがある。その時ステネルセン(STENERSEN)教授はアウグスブルグ信仰告白の第14条を尊奉することが正しいと主張し、「正規の召命を受けた者」とは、国教会による正式の按手礼を受けた教職者にのみあてはまることだと言った。後になってステネルセン(STENERSEN)は、教会史を著述したが、ハウゲによる信仰復興運動について彼は頑迷な国教会の見解を固執して、相変わらずの冷たい註釈を加えている。

 ハウゲはクロウ(KROGH)監督、ブッゲ(BUGGE)監督、セレンセン(SǾRENSEN)監督らと個人的な交際をするようになった。彼はまた何人かの牧師の訪問を受けた。チャプレン・プァベルス(CHAPLAIN PAVELS)と後に監督になったヒェルショウ(KJERSCHOW)は、ブレツドベツド(BREDTVET)の訪問者のうちの定連であった。国会議員中にも、ハウゲのサークルに属する人々が多数あり、ハウゲの農場をひんぱんに訪問した。
ハウゲは祖国と、彼の友人達の利益となるような生産的企業に対する興味と感心を忘れたことがなかった。1823年の10月、彼は金物類の生産を目標とする、野心的な計画を回状で発表したことがある。彼は財政上の手配についての提案をし、工場設置の候補地としては、人口稠密なアケルスフス(AKERSHUS)地区を提案した。彼は友人達に、各自の出資額(金または物件による)を申し出てほしいと要求し、最終的な結論を出すために、全国集会をすることにしようと呼びかけた。然し1823年の冬から24年にかけて、彼は全く健康を害し、ハウゲを中心とするこの計画は、ついに進展を見せなかった。

ハウゲが出獄後に書いた著書

 ハウゲが1814年以後に書いた著書は、前期のものにくらべて文体においてすぐれている。旅から旅への巡回伝道時代から、バッケ(BAKKE)とブレッデゥヴェト(BREDTVET)での瞑想的な生活への転換を考える時、それは予期されたことであろう。とはいえ、ハウゲの著書を読むものは、ハウゲの物の考え方に従って読んでみる意欲をもたねばならないであろう。彼の文体は驚くべき文法的飛躍と宙返りの連続で、句読点がほんとうは何を意味しているのかハッキリしない場合が多いからである。幸なことには、彼の著書から教えられた人々は、主として宗教上の内容に関心をもっていた人々であり、それこそ彼の文体の巧稚を超えて、豊富に盛られていたからである。

 1815年、ハウゲは宗教的詩歌を集めた本を出した。翌年また彼は1冊の本を書いた。ニールス・シベルトゥセン(NILS SIVERTSEN)の意見によると、それはハウゲがもっていた知識の中心的な要素で、彼が全国を行脚した当時に塊集したものである。書名は「ハンス・ニールセン・ハウゲの旅行と、もっとも重要性をもつ冒険談」と、つけられた。その第三部は、ハウゲ自身の宗教的確信の根拠を示すもので、「私自身の宗教上の認識を要約したもので、私が同胞の間に伝えたいと願い求めて来たものである」と題された。この重大な文献の翻訳は、本書の附録にある。

 1816年になってハウゲはさらに1冊の小冊誌を発行した。彼はその中で、1796年から1804年にかけて彼が出版した14冊の本の書評を試みている。1817年には、彼は「宗教的感情とその価値について」を書く用意が出来ていた。シベルトゥセン(SIVERTSEN)は「本書は、その文体と形式において、その豊富な宗教的内容において彼の著書の中で、最高の位置に値するものである」と評している。

 ハウゲは本書の中で、1796年に起こった彼の重大な内面的経験についての詳細な記述と、それから後に、彼が経験した霊性の成長発展過程を公開している。それは苦と苦痛の記録である。彼は信じようと努めながら、疑いと疑惑に悩まされつづけたのであった。彼は嘲笑する者らとった。彼の精神の内面では、召命感と死によるこの苦しい世界からの解放を願う祈りとが、入りまじって彼を苦しめたのである。彼はまた、邪悪な思念の虜となって苦しんだこと、選びの教義に対する困惑、神と天国と地獄の実在についての疑い、世俗に溺れやすい人間性とのいについて述べている。

 彼は伝道を志したころの説教の準備をどういう風にしたか、その課程についてまで語っている。彼はまず即席でやることにした。前に準備をして説教をしたこともあったが、結果は失敗だった。彼にとって人々のハートに迫る効果的な方法は、自ら全く無力になって、徹底的に神の恩寵に依存することだった。ハウゲがもっていた驚くべき聖書知識の量を知る時、彼が全くの準備なしに、次から次へと説教することが出来たということも、全く考えられうることである。ハウゲは神の言葉を彼のハートに蔵しこんでいた。彼が立ち上った瞬間、その場に居合わせた聴衆の欲求にこたえる適切な神の言は、聖霊によって、彼の心からただちに引き出された。彼が語り始めると、キリストの愛が、権威と力をもって、彼の言を肉づけるのであった。そして彼の語る言が神よりの言であることを認める人々の心の中に入って火のようにうち側で燃えるのだった。

 このころ彼が出版した著書は、次のような順序で世に出ている。「死に直面した生活」1818年、「聖書のある箇所に対する註釈」「祝祭日用のテキストについての註釈」1820年、「ジョン・タウラー(JON TAULER)の著述の要約」1821年、「キリスト教の信頼性についての証言」1822年、「日曜日および祝祭日の朝拝および夕拝用テキストに対する諸家の註釈を集録し年間の使用に便利なよう配列したるもの」1822年、「教会史要略」1822年、「コリント第一の手紙15章について」「真のキリスト教の可能性について討議」1823年、「著者不明の一週7日間の生活規定」「平民間に用いられてよい建設的な会話、瑞典語よりの翻訳」1824年。

 これらの著書よりも、重要価値をもつものは、彼の最後の著書「H.N.ハウゲの友人達に対する証言」である。これは1821年に書かれたが、彼の死後まで出版されなかった。

 前に掲げた著書のリストを見ても判るように、あるものは翻訳であり、あるものは他人の著書の再版である。教会史はルデゥイ ホルベルグ(LUDUIG HOLBERG)その他の著作を参考にした彼自身の著述だった。彼がその教会史の中で追究している題目は宗教的寛容である。彼は、あらゆる角度から光が問題点に集中照射される時、真実が明瞭に浮き出されると信じていた。「もし人々のハートと理解が真実の前に開かれているなら、最も明確に真理を把握している者、聖書とキリストの教に従って敬虔な生活を送っている者は、彼の教えによって、最も多くの信者を獲得しうる筈である。」と。ハウゲは聖書的真理を把握することと同様に、キリスト者の真実な生活を重要視していたのである。

 1821年の初頭、ハウゲは彼の体力が目に見えて衰えてゆく事実に気がついた。余命いくばくもなしと思ったのか、ハウゲはせっせと筆を走らせて、彼の死後、彼の友人達に守ってもらいたい原則を書き残した。彼の遺言は彼の生活と教の基準を示すものとして価値あるものである。それはまた20世紀に入るまでのノルウェーの教会生活の中でハウゲ派が占める将来の位置を指示するものでもあった。遺言状の全テキストは附録に掲載されている。ハウゲが同志に訴えた10ヶ条を要約すれば左の如くなる。

1. 恩恵と聖潔の霊が、友人達および将来の回心者の上にあるように、
2. 神の言が、この世のいっさいのものにまさって尊い宝と見なされるように、
3. 基督教文書の選択に思慮分別を用いるように(ここでハウゲは教理の純不純をためす方法を與えている。)
4. 同様の思慮分別は、著述家の側でも働かせてもらわねばならない。信仰的書冊に対する社会的検閲が必要である。
5. 彼の同志達がアウグスブルグ信仰告白を、われわれの国家宗教を守り、教会に出席し、礼典にあずかり、牧師司式のもとに結婚し、葬式その他のことについてもよき習慣を守るように、
6. 同志達が、特に留意して、a. 生ぬるさと、いっさいの保証に依存することを拒絶し
7. 不和を警戒するように!「調和以外に大切なものはなにもない」
8. 知識人、センチメンタリスト、偽善者を重要な地位に潜入させないように、厳密な監視を怠らぬように、
9. 巡回伝道者および教師の資格を厳重に試験するように、霊の賜物において円熟していることと、キリスト者の経験を豊富に持っていることが必要である。長老達は、このことに意を用い、巡回伝道者および教師達の仲間の間の諸問題を解決すること、
10. 他派の人々とは、温和と寛容の態度であたること。「神はあなたがたの知らない人々の内に、彼を愛する者を多くもちたもう」。故に「すべての人々に対し親切でなければならない」。

ハウゲの臨終の日

 ハウゲが1821年から、彼の死に至るまでの期間に、彼が出版した著書の量から判断して、彼が1820年から21年にかけて苦しんだ重い病気から恢復した後、比較的健康な日々を楽しんだことは明らかである。さきにもふれたように、彼は1823年から24年にかけて重態におちいった。その冬は大部分彼はベッドの上で暮したのである。3月のある日曜日、彼は全家族と農場で働いている同志達みんなを集めて最後の礼拝をもった時、彼は重態の床で洋服を着せてもらった。その日は彼の声を聞くことが出来た最後の日だった。

 3月28日、日曜日、彼の容態は悪化した。彼は胸部の激痛に耐えながらベッドに寝ていた。口をきくことも出来なかった。彼の妻のインゲボルグ(INGEBORG)が、彼の顔に唇を近づけた時、彼が何かを言いたげであって苦しんでいることを知った。

「あなたがいいたがっていることを、私はどうしてもしりたい!」
その時ハウゲは口を開いた。ハッキリした声が彼の口から出た。
「イエスに従いなさい!」それから「おお汝、永遠にいまし給う愛なる神よ!」
彼の妻は言った。「主はいま御許に、あなたをお連れしようとなさっているのネ」
「そうだよ」ハウゲは答えた。

 その日の午後、彼の容態は少しばかり恢復した。彼の肉親の人々がベッドのまわりで祈り、彼に「さようなら」を言うために待機した。翌朝の4時、彼は静かに息を引きとった。平和な姿だった。4月6日に葬式が執行された。ハウゲはオスロのガムレアーケルス(GAMLE AKERS)教会の墓地に埋められた。彼の墓は教会の南側の近くにある。1824年の暮れトーレフ・バッケ(TOLLEF BACHE)によって、彼の墓石の上に鉄碑が飾られた。その東側に次の言葉を刻んで。「ここに、われわれの兄弟であり、親友であったキリスト者として同志ハンス・ニールセン・ハウゲの遺骸が横たわる。1771年4月3日生れ、1824年3月29日死亡」。墓石の北側には、彼の2回の結婚と、彼の子供達のことが記録され、その西側には次の言葉があり、「彼は最後の息を引とる時まで、彼が広めたあの信仰、あの望み、あの愛に固執した。そして言葉と、行為と、著述と、キリスト的商業によって強化した」と。
そして墓石の南側には、彼は主に在って生き、主に在って死んだ。イエスの恩寵に彼は救いを与えられた」と刻まれている。

第16章 ハウゲ派の核心

 この章の見出しが、「ハウゲ派」と呼ばれる事について述べているのは、他により適切な表現がないからである。ハウゲ自身の遺書に述べられた彼自身の願いは、彼の友人達が、一派を形成する事を差し控えてほしいという事であった。その願いは、首尾良く果された。そこで起こった事は、彼の友人達と継承者達が、ハウゲ派復興の精神を、キリスト教活動のより広い範囲に伝えるものとして、彼等の責任を正しく解釈した事であった。そこに於ては、彼等の指導者によって設定されたいかなる組織上の取り決めに対しても、何の義務感もなかったのである。しかし、彼が求めて来た諸原理を生かしておこうとする最も聖別された決意がそこにあった。

回心

 真実の回心への要求が、最初に起こり始めた個人が彼自身の罪の大なることを知り、みちびかれるようにのみ回心は起こった。そしてそれは、彼の破れた状態に絶望した、更に回心は、彼自身を悔悟的に神のあわれみに任せたのであった。聖霊の示しを通して、彼はキリストの赦しの約束を受け、彼の意志を神に任ねた。自己満足と軽率さとを埋め合わせるために、不断に反省する態度は、この事に合った。この回心の経験は、現在の霊的献身の試みとして呼び戻された。勧告は、しばしば「はじめの愛」についての主題の意義を持った。キリスト教徒達は、神と共にある彼等の歩きぶりの特徴となっていた善への聖なる熱意と罪についての聖なる恐れを思い出させられた。彼等は、強いて聖霊の実について、彼等の生活を吟味するよう熱心に勧められた。そして聖霊の実の中では、キリストのために、他の物に打ち克とうとする真剣な願いが重要であった。真実の回心をするためのハウゲ派に関する事柄の重要な特徴は、突然の霊的変化に対して極めて慎重な姿勢をとる事があった。ヴェーレは、それを次のようにのべている。即ち「彼等は、キリストへ向って容易に飛躍する事には心配であった」。ここにおいて年長者達は、彼等が新しく発見した信仰において、喜びに溢れている新改宗者を抑止しようとする手を働きかけた。神に転向する事について、深く関係をもたされた人間は、しばらくの間熟考し祈るべきである事が期待された。この事は、人がキリストにある新しい生活は、疑いや誘惑の暗影から全く自由ではない事を発見したが、自発的な熱狂のための時間を次第になくしていった。その結果として、ハウゲ派を踏襲するキリスト教徒達は、彼等の信仰における深さと安定性を認識するようになって来た。

生ける信仰

 人間に対する神の意志を概説するのに、ハウゲは、「使徒性」という言葉で考え、語りそして記した。更に使徒性の定義のために、彼は4つの福音書にあるキリスト御自身の御言を資料の一部にした。その大要は、主イエスに従い、イエスのようになるために努力する事であった。この事は、ハウゲと彼の後継者達にとっては、「生ける信仰」の本質であった。「生ける信仰」という言葉に含まれている概念より、ここでハウゲ派と呼ばれる概念の核心により接近している概念は他にない。ノツトヴェツト博士は、ハウゲがここで義認と聖化に於ける正統的ルター派の見解とは、全く一致しない教義を有していた事を指摘している。即ち、信仰の「服従」という点を強調したとき、ハウゲと彼の門下達は、神の恵みにある信仰者たちの「安息」と「信頼」について殆んど語っていなかった。

 これらの時代の霊的状況を評価する事は、容易ではないが、日常生活の問題において、国民を助けるのに、正統派及び合理主義の両方の不十分さと広く行きわたった道徳的堕落について理解されている事から、ハウゲ派の復呉が、「生ける信仰」に強調点を置いた事は適当であった。この事は、教理における誤りの場合ではなくて、むしろ、死んだ信仰と霊的眠りに対する有益な機敏さであった。ハウゲ以後のキリスト教徒達の時代は、キリストの完全な業と聖い生活を生きつづける恵みの場において、子供らしい信頼をさらに十分に教える事であった。

聖化

「生ける信仰」とは、日常の処世への最も強い意味を含んでいた。個人的救いは、決して信仰的訓練の分野に閉じこめられなかった。更に、教理の点の正しさもまた真の基督教の目安としては決して強く説得されなかった。それにおいて重要なのは「生活」であった。チューネ教区に於ける一少年のように、ハウゲはいわゆるゼーベルギアン、(地方的モラビア兄弟団)の矛盾した生活に恐れすくませられた。彼等は、「神の子羊の血」について、大変感動的に語る事ができたが、しかし、彼等の生活は、しばしば面目をけがすものであった。勇敢な一人の青年作家として、ハウゲは合理主義的、及び正統派のような聖職者についての価値のない生活を公然と非難していた。ハウゲは、偉大なる巡回信徒伝道者として、不信仰を非難し、正しい生活をするために神が要求をしている事によって、次から次へと町々を改革していった。ブレッデゥヴェトでの老いた長老として、ハウゲは、彼の友人達の前で偉大な使徒ヤコブの精神において、聖書の道徳的命令法にとりかかった。彼は、自分の臨終から「イエスに従え」と叫ぶ日まで、彼は行為のない信仰は死である ―― 使徒である事は、聖き生活を意味するという確信をもってしっかりと踏まえたのであった。

律法主義とは

 何人かの人は、ハウゲが倫理的に強調していた「律法主義」という名札をつけた。デンマークキリスト教徒たちの幾人かは、ハウゲを律法と行為の効果のない、そして奴隷的に用いられた問題でもって、占められているとみなした。ノルウェーの国中いたるところに、ハウゲについてのみ知っている人がたくさんおり、彼の友人達が現代社会の快楽に逆らって行った厳格な禁欲の訓練を受けた身である事が期待されねばならなかった。彼らの批判的でない眼に対して、その復興運動は、良い行状についての一宗教であった。今日でさえも、ハウゲの名はあまりにもしばしばそれが良き行為による救いの意味における粗野な律法主義に結びつけられていないにしても、少なくとも消極的で偏狭である生活と結びつけられるのである。

 個人指導という特殊な問題に関しては、ハウゲはある難問についての彼の知識と彼の価値あるものに対する一つの霊感であった。

 彼の初期の訓練の力で、彼の直感的態度は、凡てのいかがわしい活動を完全に放棄する事であった。彼は敬虔という一形式に向って、その方向を最も正しく定められたので、一人のキリスト者にはふさわしくないものとして、笑いものにした。彼の友人達は、ハウゲからもっとも奮的な他の現世的事項を期待していた。そして、その大部分は、彼が彼等を失望させなかった。しかしながら、彼が自分の注意を事業の世界に向け、そして一商人となるために、ベルゲン(BERGEN)にある彼の市民権を放棄すると、友人の多くは思い惑った。彼の確乎たる裁断についての限られた活動によってだけ、ハウゲは信仰復興運動を貿易、産業及び事業等の業務をもって生き生きした感覚にひき入れる事ができた。友人達の不審と静寂主義にもかかわらず、彼は伝道の目的を進めるために、この世を用いるための場面をくりかえしつくった。この世を否定する事は、それを卑しむ事を意味するものではなかった。

 ハウゲは、1809年に、刑務所から出所して、製塩所を建設する事になった時、彼が人をつまずかしめる原因をつくるという事がより早くのべられた。彼は、深い関わりをもつ目的として、古い友達の中にあらわれた。なぜなら、今彼は、平らな手袋の代わりに、愛玩物を編み、日曜日には鬚をそり旅行した。彼の数年後のブレッデゥヴェトに於ける指導は、より容易ならぬものにみえたのであろう。それは、酒が祝日の場合に用いられるのみならず、ブランデーも亦なお農場での働きの中で保存された。1818年にハウゲは、一通の手紙を受け取った。その手紙で彼はブランデーを製造する事を、はげしく非難されていた。彼は、自分がそれを製造する事が罪であるという事を発見していなかったというように返事した。しかし、もし彼がその意見に達するならば、彼は「ただちに、彼のやかんをこなごなにたたきこわしたであろう。そして、それがどんなに興味のあるものでも、ノルウェー教会の歴史についてのイヴァール・ヴェーレの著書は、“HAUGES MERSKUMS-PIPE MED SǾLVBESLAG”という一つの描写を公表した。

 兄弟達の間でこのような問題について、ハウゲは専制政治と寛大との間の困難な課程を図表にした。友人達の間には、共通の紀律があった。しかしまず第一にそこには愛があった。オルディング教授は、ハウゲが飲酒の習慣とたたかつている一友人に書いた手紙を引用した。最も思いやりのある方法で、ハウゲは、この不幸な人を助けるために、兄弟らしい手を伸ばした。彼は父なる神が、父の立ち返ってくる息子をうけ入れるためにのばされた腕で、立っているキリストの聖座に向って、しいて彼を向けかえようとさせた。

もう一つの俗念

 しかし、過度な敬虔的マンネリズムでは有名であったジョン・ハウグヴァルトシュタットにとって、ハウゲはきびしく且つぶっきらぼうであった。ハウグヴァルトシュタットが1818年にブレッデゥヴェトを訪問したときに、ハウゲは彼に、「あなたのもっているこの関係は引き受けられるのであって与えられるものではない」と云った。ハウゲはハウグヴァルトシュタットの疑問とされぬ(確固たる)献金についての一人の人間の態度を注目したときでさえ、あいさつをした頭、ふるえている声、ゆううつな顔つき、といったキリスト者の生活の漫画に対して反応を示した。

 彼等の指導者の態度を実例にも拘らず、ハウゲ派の人達は、外面上の行動において、厳粛さへの彼等の情熱においては、否定されなかったであろう。というのは、それは彼等の実例になった同じジョン・ハウグヴァルトシュタットであったからであった。ジョン・ハウグヴァルトシュタットは、立派なキリスト者であり、著名な説教家でもあり、且つ又ノルウェーにおける外国伝道の仕事において、最初の偉大な指導者であった。彼は、一信徒説教者として巡回した。ハウゲが投獄されたり、又他の信徒説教者たちが沈黙しているわずかな時間でさえ、一信徒説教者として巡回旅行をした。又彼は、デンマークを3度も訪れ、スウェーデンに3度、ドイツに1度訪れ、これらの国々で外国伝道の計画を知るようになった。ノルウェーの伝道協会が、1842年に設立されたとき、ハウグヴァルトシュタットは主要な組織者の一人であった。彼はスタヴァンガーに、住居を構えたとき、彼は親睦会を催すために、彼の周りに多くの人々を集めた。そして、それは1845年に、祈りの家を建てるために必要となった集会であった。

 ハウグヴァルトシュタットを知っているものは、みんな勝利を得た人々の仕事における彼の堅実なキリスト教徒の性格と賢明な指導性のために彼を愛した。M.O.ヴィーは、「神の恵みにより、彼はキリスト教徒達を一つにさせる事に役だった。そして、平和と調和の精神を持続して行く愛において役だった。彼の住んでいる町(スタヴァンガー)の少年たちは、彼を「聖なるヨハネ」と呼んだ。そして、彼の敵でさえ、「もしだれかがキリスト教徒であるなら、それはジョン・ハウグヴァルトシュタットである」と彼について語った。
そこで、この愚にもつかない結果でもって、この人の励まし合いは、彼の偏心はマンネリズムの再現を含む事に関して、遠くへ行ってしまったという事になった。マツヅ・ヴェフリングというハウゲ派の信徒説教者は、のちに牧師となった。そして、この物語を語った。

「その事に気づかないで、私は何かある危険な歩みと直立した態度をとった。友人の一人は、この世の子供のように歩くために、私をそばへつれていき、私を責めた。私は、私が書かなければならないと、その時どのように考えたかを彼にきいた。」

「ジョン・ハウグヴァルトシュタットをごらんなさい、そしてこの方をあなたの模範にしなさい」といった。「私はやってみます」と私は答えた。それは、私が人のまねをするのは容易であるから、その試みは順調に行われたので、その事に注目していた友人は、私がそれを重んじすぎるといった。

「なぜならば、今あなたには全くジョンがしている通りに歩いていますから」と、彼はいった。

 そこで今、彼は私に自分の旅行の友アンダース・ハーヴを手本として命じた。彼の歩み方をまねする事は、私にとって容易になって来た。全体の事は、私に歩き方についてたずねる友達で終わった。しかしながら、それは当然攻撃する事になった。私は、本当にこの事が議論の余地のない程に正しい事だと述べた。私は、この原理を、この時までに強力に進めて行った。そして私はその事に従いつづけようと思った。

 キリスト者の行為の模範は、ハウゲ派の人たちが異なった教理的強調を体験したので、少しばかり変った。しかし大体において、彼等はいつも俗念に対して用心をしていた。他の世俗的な見解の可能な両極端は、ありふれた次の表を作った。即ち、自己義認、偽善、圧世観、律法主義、取り澄まし、及びヴェーフリングが笑わねばならなかった不自然な種類のものであった。凡てこれらのものとそれ以上のものは、ハウゲ派の人々に反対して差別をとりさり、一掃された。しかしいつも裁きをもって一掃はしなかった。当時ハウゲ派は、ノルウェーに根を下しはじめた。公衆道徳は、宗教的復興の浄化の効果が必要であった。他方において、キリスト教徒でない人間は、その人間が、彼等がお互いに示し又その人間に対して示す利己的でない愛によって存在するように、神の民によって追究されて来た厳格な規定によっては、必ずしも成功させられないという事をだれも否定しないであろう。

個人の救い

 個人的なハウゲ派の外面的な敬虔についての消極的な面は、ちょうど、ハウゲ派の社会倫理の積極で勇を鼓す面と同じように明らかであった。個人指導と共同体の改革は、ハウゲ派の見解には高い姿勢をとっている。しかし、根本的に宗教的な経験の派生物としてのみたっている。彼等のための最高の問題は、いつも「我々は救われるために何をすべきか」という深く厳粛な問題に集中した。ハウゲ派の人たちが語り、行なった他の凡ての事は、個人的救いの問題をもつこの大事な仕事に関して評価されねばならなかった。彼等が彼等の厳密な行為でもつて云おうと努力しはじめた事は、神との個人的な関係は、人間が永遠の救いの目標から注意をそらせる何かをよろこんでさけているという事は、このように凡て用いていくに重要であるという事であった。この事は完全な回心における彼等の云い張りの理由を明らかにする。それは、その「方法」が凡てのものであるのでなく、その目標が永遠の救いであるという事だった。

警戒

 付け加えるべき事は、「目標」とみなされている救いについて云うべきである。初期のハウゲ派の人々は保証された財産としての救いについて語る事には極端にためらったのである。彼等に対して救いは、究極の目的、天及びキリストの現在についての首尾よい逐行を意味した。人が死にのぞんで永遠の祝福を迎えいれるまで、信仰者のための巡礼にとどまった。そして、野道にそって彼には余りにも強力に示された平安と試練を待ちうけていた。それゆえに、巡礼者にもっとふさわしい態度は、歓喜ではなくて慎重さであった。
教理的強調において明白な工夫が、1830年におこなわれるまで、ハウゲ派の人々は、讃美しはじめなかった。そして、歓喜も又罪のゆるしと信仰による義認への彼等の応答を特徴づけている。しかしながら、キリスト教徒が、注意深く存続する必要性は、決して忘れられなかった。たとえどんな世代であっても彼等は生きた。ハウゲから学んだ人は、キリスト者の生活を到達としてみるのでなく、日々の戦いとしてみる。これをうみだす心の敬虔な状態は、人に罪の力の強襲を用意させる。罪への誘惑は、その後は悪魔と、この世と信仰者に対するより大きな狂暴さをもつ肉の怒りを期待させた。そしてこの信仰者の唯一の避け所は、ただちにイエスへ向って逃げこむことである。

福音主義

 魂の救いについての関心も又人間の隣人の霊的幸福について関心をもつ事をいみした。私的な会話や、家庭での集会において、ハウゲ派の人達は、自分たちの信仰を立証するのに忠実であった。彼等は常にいかに神がそのようにあわれみ深く彼等を救ったかについて語った。それから、彼等は厳粛に神が見出されるまで、神を求めようとしている非回心者を戒めた。それはもっとも直接的で個人的な方法で実現された、簡単で宣教的プログラムであった。それなくしては、ノルウェーにおいて信徒運動は一つもありえなかったであろう。福音を広めるための燃えるような強制力は、ハウゲの生存時代から現在までのキリスト教徒を動員する事に重要な働きであった。ニイルス・リイス(NIELS RIIS)、ミッケル・グレンダール(MIKKEL GRENDAL)、ラルス・ヘムスタッド(LARS HEMSTAD)、ペーダー・ロエル(PEDER ROER)、トルレフ・ベーチェ(TOLLEF BACHE)、ミッケル・ニールセン・ハウゲ(MIKKEL NIELSEN HAUGE)、パウロ・グンデルセン(PAUL GUNDERSEN)、トルケル・ガベスタッド(TORKEL GABESTAD)、オーレ・オルセン・バッチェ(OLE OLSEN BACHE)、ジョン・ハウグバルデゥスタッデゥ(JOHN HAUGVALDSTAD)、ハルボール・アンデルセン(HALVOR ANDERSEN)、JON SǾREBRǾDEN 、ELLING EIELSEN 、BORSOEN ANDERSEN 、NILS YLVISAKER 、等は凡て信徒伝道者であるが、このような原動力になった人々は他にいなかった。そして、その中の何人かは、ノルウェーやアメリカにおいて牧師になった。

 信徒伝道の仕事から、一つの方法が自ずから本国と海外伝道への関心へと導き入れた。1850年から、「ハウゲ派」という名はもちいられなくなった。その間に、これまで記載された諸原理によって、彼らの生活を導く個々のキリスト教徒は、祈りの家において営んで来た信徒運動によって、益々会員が増加して行くのを発見した。それから独立したキリスト教徒の組織の時代が到来した。これらの事は、キリスト教徒が、神の救いの福音をたずさえて、更に遠くへ手を伸ばすために、たたかい、立証する権利を、又、与える権限を勝ち得たゆえに、ノルウェーと遠い範囲に亙る伝道圏に対して、このようなただ一つの祝福を受けたという事であった。

第17章 ハウゲ派と教会

 よく似た宗教運動のように、ハウゲ派は、その初期の霊的熱情を伴っていた明白な形を、その独自な霊性を結び合わせる傾向があった。即ち、その支持者たちは、家庭集会が持たれていた方法や、宗教復興運動を普及させるのに必要な聖書販売の場及びエイケルとブレッデゥヴェトが指導したような「伝道所」的機能等々に自然な愛着をもっていた。
しかし、辛辣に公共の組織体の中に併合する事に対して、予め指示したハウゲとともに、彼の後継者達は、宗派心の強い傾向との戦いをやめる事に成功した。この宗教的現象は、教会史において、無類の復興運動としてハウゲ派の復興運動は、その価値を尊重するのにうとかったその教会を豊かにするために、尚継続していった。

 しかしながら、ハウゲ派の貢献を教会の主要な流れに持ちこむ事は、単に10年間では完成されなかった。「教会」という聖書的理解から、最初の発端よりハウゲと彼の改宗者、彼の協力及び彼等の業に参加した人凡ての者が、最も力強く信仰者とキリスト教会の交わりの中にあったという事を指摘する事は、不必要であると思われる。ここでその目的は、それがノルウェーの国教会自身に関わるようにハウゲ派の道程を捜し出すことであった。ある教理的問答を論争する事は、最初は都合がよかった。それから、この国の偉大な霊的天才であり、開拓者であるハンス・ニールセン・ハウゲの後を追う事ができる、ノルウェーの宗教的生活における発展をよりわけようと企てる「歴史的な概略図」に対する機会であった。

おわり

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