百姓伝道者ハウゲの伝記 第2部 6〜9章

第2部 ノルウェーのリバイバル説教者

第6章 平信徒運動は確立された 1800〜1801年

デンマークへの初旅
 1800年、デンマークのコペンハーゲンですごしたひと夏は、ハウゲがその生涯を通じて、最もよく働き、最も豊かな収穫をあげた一時期であった。旅行の目的は二つあった。一つは彼の初期の著作の再版のためで、ほとんどその残本がなくなっていたのである。第二の目的は、彼の事業に対して政府の援助は受けないという彼の信念を証明するためであった。ペーデル・メイエル(PEDER MEIER)とクリストファー・グレンランド(CHRISTOFFER GRǾNLAND)と名乗るオスロの出身の二人の青年が彼に同行した。メイエル(MEIER)は、ハウゲの著書の荷造りとノルウェーへ積み出す仕事を手伝うためであり、グレンダール(GRǾNDAHL)は、印刷術を見習う為だった。ハウゲは初期の品切れになっていた著作の再版の外に、新著「キリスト教について」(DEN CHRISTELIGE LǼRE)と題する900頁の彼の説教集を出版した。さらにコリンス(COLLINS)著 CHRISTELIGE LEVNEDSREGLERも印刷された。本書は信仰生活の成長のために必要な日毎の霊的活動について教えるものだった。

 第三の出版書は「キリスト教教育の基礎」(CHRISTENDOMMENS LǼRDOMSGRUNDE)であったが、これは大変、誤解を招きやすい題名であった。実は、本著は「ハウゲの平信徒運動情報」ともいうべき内容のものであって、二部作として出版され、1804年に、第三部が追加された。本書の目的はキリスト者のために一冊で、多方面の要求を満たすことをもくろみたもので、ハウゲが同志との間で交換した手紙や、ハウゲ自身が書いた金言や、コリンス(COLLINS)やポントピダン(PONTOPPIDAN)など、世評に高い信仰書からの抜粋などを集録し、それに、さんび歌をも加えた。ハウゲは編集と校正に当たったが、後で親友達の間に書簡を送り、特に彼らがよいと思った書簡についての批評を求めた。これらの文献の中に、重要な人物や場所があげられているので、ハウゲの平信徒運動を研究する人々にとって今では非常に価値の高い資料となっている。ハウゲはまた経外聖書の印刷にも手をつけたが、出版されたのは翌年のことであった。

 ハウゲはヨハン・ティーエレ(JOHAN THIELE)と呼ぶ印刷工と以前から知りあいになっていたが、この男は印刷の全工程を扱い得なかったので、ハウゲは印刷業者を他に求めなければならなかった。ハウゲは次のように書いている「そんなわけで5軒の印刷業者が、私の著書出版のために働いてくれた。そのうちの一印刷業者は、私のおかげで、4か月の間、手いっぱいの仕事をもったほどだった。」

 ハウゲ自身、執筆、編集、校正と寸暇をおしんで精励し、製本から荷造りの手伝いなどした。「私は殆んど毎日のように、朝の3時に起きて、夜の10時まで働き通した。友人のペーデル・メイエル(PEDER MEIER)が傍にいてくれて、あれこれと手伝ってくれ、出来上がった製本は、彼の手によってノルウェーへ積み出された。われわれは秋が訪れるまでに、一切の用務を済ませたいと思って、体力のつづく限り、昼夜をわかたず仕事に精励した。」ハウゲは出版の仕事に没頭しながらも、なお時間を盗むようにして、コペンハーゲンの製紙工場を見学し、その設備を、しさいにわたって頭に叩きこんだ。

 旧著と新著の印刷製本を完了したハウゲはコペンハーゲンの警察署長と、ノルウェーの各教区の警察署長あて、各1冊づつを贈呈した。官憲には敬意を表して1冊づつの新著を贈呈しておけば、彼らもまた、ハウゲの運動に好意ある態度を示すであろうと、彼は憶測していたのである。
ハウゲは少年のころから、「神によってたてられる立派な政府」の存在を信ずるように習慣づけられていた。それだけに、彼が神の召命によるものと信じていた運動が、国王および政府によって否定されうると考えることは、全く理解に苦しむところであった。
ハウゲはコペンハーゲンでの一夏を回顧して、次のような正直な陳述をしている。「私にとって、正直であることと合法的であることとをさけて、外の手段に訴えるということは全く私の思慮の中にないことだった」と。彼の贈呈本を受け取った権威筋から、何ら不承認の通告が来なかったので、彼の運動の前途には、ここしばらくの間、干渉の危険は存在しないものと彼は結論した。

逸脱をチェックする

 ハウゲは、帰国してまもなく、ノルウェーの東方地区に住む彼の信奉者の間に、宗教的狂信行為があることを知った。宗教的諸集会に出席することが多くの人々の間で、排外的な関心事となり、家庭と職場を省みない傾向が起こりつつあった。当時、年令僅か29才の青年ハウゲであったが、彼はキリスト者の家庭における責任について成熟した立派な見解を説いて廻って、これらの狂信者の逸脱行為を是正することにつとめた。

 彼はある時ビルド(BIRID)と呼ばれる小村で検挙された。そして、司法官の農場にあった留置場の中で坐っていると、司法官の老母がやってきて彼に言った。
「あなたのような若くて魅力のある人が、自分を捨てて、世間の見世物になるなんて情けないことではない?」
ハウゲは答えた。「あなたが、その年になって、なお暗愚で、不信仰であるなんて、もっと情けないことだと、私はおもいますよ」
まもなく彼は釈放され、1800年の秋の大部分を、オスロ教区の全域にわたって伝道して歩いた。彼の説教の一例で、彼のメッセージを要約していると考えられるものがミッケル・グレンダール(MIKKEL GRENDAHL)の著書の中で発見される。それは彼がその時の伝道旅行中、極力強調したことがらのくり返しであった。

 ほんとうの信仰というものは、神の直接的な語りかけにまつまでもなく、われわれが学んだ小教理問答にある通り、福音と礼典の中に秘められている神の御約束に信頼をおくものでなくてはならない。それが信仰と、正義と救いの方法であるからである。

 当時の彼は非常な努力で、仕事に集中していた一時期であった。彼はその体力と霊力の一切を傾けているかに見えた。彼に課せられていた仕事の分量から考えて、人々は彼の健斗と能力に驚いたものである。
「このごろの私が経験した悲しみと喜び、たくさんの仕事をかかえての不眠不休の努力、それはほとんど筆舌につくし難いものであった。私は毎日、2,3時間しか寝なかったし、旅行中も、家にいる時もいつでも多くの人々に取りかこまれて、神と聖書についての話をしなければならなかった。私は休むことなく、話しつづけ、読みつづけ、書きつづけた」

 ハウゲによって主に導かれた回心者達の中に、それぞれの職業を捨てて、霊的奉仕者を志す者が多かった。ハウゲは彼自身がそうだったので、別に驚きはしなかった。彼にも、此の世的な執着を断ちきる道が、所有財産を売り払ってしまうこと以外にないと思われた時代があったからである。さて彼が始めた平信徒運動は、今や永遠の生命のために現実を忘れがちな一知半解の時期を通過しなければならなかった。
 それにしても、問題の影響は深刻であった。なぜなら、ハウゲは彼に従う人々に対して、仕事を放棄し、食事の後の皿も洗わず、彼らの問題の解決を、さんび歌合唱と聖書朗読に求めるよう教えているという悪評が流されていたからである。せっかく盛り上ってきたリヴァイヴァル信仰復興運動ではあったが、このような風説が流されては、それをうち消すことは困難であった。もしノルウェー全国民の救霊を目指すなら、神の子達は、怠け者のそしりを受けるような者がひとりもいないように留意する必要があった。どうして人々は、こうもたやすく極端な生き方を選ぶのであろうか?ハウゲはその心理的観察に興味をもたないわけにはいかなかった。
「私は以前から、無知の代りに迷信を選びやすい人間の傾向に気がついていたが、今ではそれが目にあまるようになってきた。無知と迷信から解放された中道、即ち黄金律を発見するために、私は全力を傾けてきたし、私を信頼してくれる多くの人々に、その道を示そうとして、私は自らその黄金律を守ってきた」
 1800年ごろには、ハウゲによる回心者の数は1000人を超していたので、彼らの霊的教育について、個人的な指導と監督をすることは不可能なことだった。彼は出来るだけ多くの人々と、個人的な接触をたもち、それが出来ない時には手紙を書くことにした。然し彼の同志であった地方に住む年輩の指導者達は、これらの欠陥を見逃し勝ちだった。このような傾向が、ノルウェーに起こったリヴァイヴァルのひとつの型だったとしても、それは自然発生的なものではなかった。ハウゲが真剣に努力したことは、各地の回心者の群の指導者に、霊的にバランスのとれた、信頼出来る人間を選ぶことであった。彼はたとえ年長者であっても、極端な男は、決してリーダーに選ばなかった。彼が選んだ男は、神の言の確かさを、実生活の中で経験済みの男であった。彼らは日常の行為の中で、キリスト者の高い倫理道徳の実践者であるという定評のある人物に限られていた。信仰復興運動の波が全国的に拡がっていくにつれて、その推進力となるものは、組織の力ではなく、第一に訓練、それから安定を生み出す構想について、先見の明をもつ指導者に負うところが多かったからである。

エイケルの製紙工場

 1800年の12月、エイケル(EIKER)に建設された製紙工場の創業を皮切りに、ハウゲによって開始されたリヴァイヴァルは、企業方面にも進出することによって、その運動の目的を達成しようとした。ハウゲが製紙工場建設に興味を抱いた理由は自明である。彼にもせよ、彼の同志にもせよ、たとえ牢獄につながれる身になっても、ざんげと信仰をすすめる使信の印刷物は、いつでも神の祝福を人々の間にもたらすに違いない。

 ハウゲは彼の著書の売り上げからの収入でエイケル(EIKER)に建設されることになった製紙工場の経費を援助した。同志の株主6人の共同出資によるものだったが、そのひとりにミッケル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)がいた。ハンスが共同出資者の中に名を連ねなかったのは、彼自ら言っている次の理由による。「私自身の願いは、他の人々に利益を與えることで、私自身の名誉や、利益など考えないで、仕事をやりとげてほしかったのである」

 エイケル(EIKER)の製紙工場はノルウェー南部のクリスチャン達の中心地として有名になった。1840年ごろまで、そしてその後も、そこはハウゲの平信徒運動のもっとも重要な集会地になった。同地はまたひとつの企業をめぐって、自治的共同社会を建設しようとした点でも、その生産性、効率性がすぐれていた点でも模範として注目された。40,50名に達する従業員がこの製紙工場で働き、住宅と職業の保證が與えられていた。彼らは長いテーブルをかこんで食事を共にし、ミッケル・ハウゲを指導者と仰いで一家族のように一緒に働くことを喜んだ。多くの身障者にも仕事と宿舎が與えられ、家族に加えられた者の子供達も多かった。

 エイケル(EIKER)の製紙工場は、集会クリスチャンになりがちな怠惰なクリスチャンに與える直感教育を目的に建てられたものであった。ノルウェーの経済概念から言って、このことは印刷出版業界に決定的な貢献をすることになった。まもなくエイケル(EIKER)地方には、ハウゲの信奉者たちの出資によって建設された、砕鉱機(STAMPING MILL)、骨粉工場(BONE MILL)、製粉工場、毛皮工場、教会用の鏡や大砲などの鋳造場などが林立することになった。

 ハウゲはエイケル(EIKER)から北方のハリングダール(HLLINGDAHL)へ、それからヘムセダール(HEMSEDAHL)へ旅立った。そこでは別な宗教上の誤解が存在したので、訂正するのが彼の目的だった。平信徒伝道者オーレ・オルセン・バッチェ(OLE OLSEN BACHE)はその力強い説教によって、恵みの日のうちに神を見出すようにと、多くの人々の心をかきたてていた。しかし霊的に目を醒ました人々の中にバング(BANG)が指摘している通りの誤ちがあった。「熱烈な信仰はあった。然し知恵と霊的な思慮の深さに欠けていた」。多くの信者の中に、「1800年の10月4日に審きの日がくる」という巡回伝道者の言葉を信じていた者があった。その日が無事に通過すると、審判の日は新年の夜に変更されたと彼は言った。ハウゲは彼らに対して「その日、その時は、誰も知らない」と、キリストが言っておられる聖書の箇所を示したので、彼らはハウゲの矯正の言葉に従った。

ハウゲとKLOKKER

 ハウゲがネス(NES)を通過した時、彼は逮捕されて地区の牧師の家に連れていかれた、訊問されるためだった。彼の逮捕を命じた二人の牧師と、教会の合唱隊の指導者がそこで待っていた。彼らのひとりは「なぜ神様は、ハウゲとその同志の上に聖霊を下し給うたように、わたくし達の先祖達の上にも聖霊を下し給わなかったのであろうか?」と問うた。
 ハウゲは答えた「神の相談役であったものは誰か?神にさきに與えたものがあるので、それを返せと要求しうるものがあるだろうか?」と。
 合唱隊の指揮をしていた老人は、狂気のように怒って、彼が40年かかって達成したものを、ハウゲが、ぶちこわしてしまったと抗議した。
「そんなにかんたんにぶちこわされるような建物を、君はどんな風に建てたのだ。君は教会を、岩の上に建てなかったのだね」とハウゲは追究した。
 美しい自然の風景に恵れたヘムセダール(HEMSEDAHL)とハリングダール(HALLINGDAHL)地区へのこの度の旅行は、ハウゲにとって、特に事件の多い旅行だったし、伝えられている逸話はユーモアと色彩に富み、この偉大なリヴァイヴァリストの人間性をのぞかせている。
 それは冬季の山中の旅行だったので、ハウゲは毎日スキーを走らせて、2里から20里の旅をつづけその途中で、毎日2回から4回の説教をした。ある日曜日のこと、礼拝が終った後で、彼は教会の外に出て、降りつもる雪を頭にいただきながら、農民達に語りつづけた。ある場所では、彼を捕縛しようとした地区の司法官に300人あまりの彼の友人達が襲いかかろうとしたことがあった。然しハウゲは友人達に向って静粛にしてくれと懇請し、司法官と連れ立って歩いて行った。

ハウゲと踊った人たち

 ハウゲの逸話の中でも、もっともよく知れ渡っているひとつの事件が、このハリングダール(HALLINGDAHL)に近いオール(AAL)で起こった。ハウゲは日曜日のひる前に逮捕され、その日の午後多くの彼の友人達が面会に来たが、許可されなかった。しかしたったひとり司法官が面会を許可した女があった。彼女は評判の悪い女で、敬虔なハウゲの面前で彼女にふしだらな振舞いをさせて、ハウゲを嘲笑してやろうというのが、司法官のたくらみであった。彼女はまもなく姿を現したが、その頬には涙が流れていた。ハウゲが彼女にキリストの愛について語ったため、罪深い女の心は砕かれたのであった。そこで表にいた群衆が、ハウゲの部屋へなだれこんで踊り出した。その中にバイオリニストだった司法官の妻もまじっていた。監督バング(BANG)は司法官の妻が大肥満な女であったと、この物語を面白く描いている。ハウゲ自身は次のように事実を語っている。

「ひとりのバイオリニストと、踊りあがって喜ぶ一団の群衆が部屋へなだれこんできて踊り始めた。司法官の妻が私に手をさしのべて踊りましょうと誘ってくれた。私は、私が歌い出す歌にあわせてバイオリンを弾いてくれるなら、と、言ってさんび歌をうたい出した。「わが身に、罪の宿ることあらざれさきの日の如く今は罪をば捨てし身なれば」
その時司法官の妻は、私の手を離した。そしてダンスはやんだ。私は聖書を読み、福音を語った。その場に居合わせた人々は、バイオリニストを含めて、私が受けてきた取扱いに同情し、他の人々は泣きながら、私と同じように主の為の受難者でありたいと願った。」

 外にもこんなことがあった。ハウゲがリンゲリーケ(RINGERIKE)へ移送された時である。彼の信仰の友らは長い行列をつくって彼の後について行った。彼は法廷で、ある人の自殺についての責任を追及されたが、ハウゲは立派に彼自身を弁護した。その地でリヴァイヴァルが起こった時、地区の牧師はハウゲを酷評して「ノルウェーが生んだ最大の無頼漢だ」と言った。だがその時のハウゲは、彼の集会に集っていた子供達を見つけて、よく見えるように、そして彼の説教がよく聞かれるように、子供達を抱きあげて椅子に座らせたほどだったと伝えられている。

 1801年の初春の数週間、ハウゲは国の中央部の山岳地帯に住む人々の間で、いそがしく働いていた。彼はハリングダール(HALLINGDAHL)を出て、バルデゥレス(VALDRES)の渓谷に入り、そこから北西にあたるヘムセダール(HEMSEDAHL)の山脈に入り、フィーレフェル(FILEFJELL)から、ソグネフィヨルド(SOGNEFJORD)の奥にある小さな町レールダール(LAERDAL)へ行き、舟でガディアンゲン(GADYANGEN)へ、さらに徒歩で、あるいはスキーでボス(VOSS)へ行き、そこからベルゲンへ到着したのが3月の中ごろであった。

ベルゲン市の市民権獲得

 ノルウェー全国に散在する何百人に達する回心者の生みの親として、また彼らの霊的指導者としてハウゲは次の推進計画を伝えねばならなかったが、それは重大で複雑な問題を含んでいた。彼がベルゲンの市民権を獲得し、商業に従事するための認可をとる決意を発表した時、それをハウゲの平信徒運動の一歩前進だと認めた者は少数にすぎなかった。
「私の知人の大部分と信頼していた友人達までが、そんなことをすれば、同志達は霊的な精神を失い、世俗の生活に帰ってしまうおそれがあると忠告するのであった」とハウゲは言っている。ハウゲは経外聖書のベン・シラの書(THE WISDOM OF JESUS THE SON OF SIRACH)の一節「商人にとって正義を守ることは困難である」を引用して次のように答えている。「困難だと言っているだけで、不可能だとは言っていない。もし不可能だったら、私自身、実業界に入ることを誰にも望みはしなかったであろう」と。
ハウゲが実業界入りを決意した理由の中にかずかずの要因がある。事業に対する彼の興味と、若々しい熱情を見逃すわけにはいかない。また、彼が卓越した才能の持ち主だったことも、彼がはり切って実業界に飛びこむことになった要因であったであろう。

 然しハウゲ派の社会全体に影響を與えるような要因は、個人的な問題に優先して考慮されなければならなかったし、まづ第一に彼がなさねばならないと考えていたことは、彼と彼の同志にしばしば與えられてきた「浮浪者」の容疑を徹底的にくつがえすことであった。第二の彼の着眼点は、有利な事業を世俗的な人間に支配させて、クリスチャンが搾取される側におかれたり、怠け者の悪評を受けやすい生活に甘んじなければならない理由はないということだった。第三に、キリスト者が経営する事業は、信者に有用な働き口を與え、青年達が求めている明るい職場を、彼らの為に備えることになるという信念からだった。

 ハウゲは市民権の下付を待つ間に、ジョン・ハウグバルデゥスタッデゥ(JOHN HAUGVALDSTAD)なる一人物の要請にしたがって、彼に霊的な問題に関する助言を與えるためスタヴアンガー市へ旅した。この人物は、後日、ノルウェーの教会史の中でも著名な働きをなし、1842年に創立されたノルウェー伝道会は、彼が中心となって発足したものである。ハウゲの死後ハウグバルデゥスタッデゥ(JOHN HAUGVALDSTAD)が、彼の友人達の間に、與えた感化は非常なもので、彼の憂鬱?な人柄の影響は、ハウゲと同時代の人々全般の上に見られるとさえ言われている。

 ハウゲは市民権を獲得して、ベルゲンの市民となると、ただちに計画の実現に着手した。彼は旧友のマーレン・ボエス(MAREN BOES)から1000リクスダラーの資金を借りて、小さな船を買い、商売と伝道を兼ねた航海に乗り出した。彼は北上してスンフョルド(SUNNFJORD)地区へ行き、鰯を仕入れた。ベルゲンへ帰ると、彼は委託された商品をオスロへ送り、売りさばいて相当の私益をあげた。

 1801年の秋、ハウゲは4回にわたる長期伝道旅行の最初の旅に出た。それは1804年の12月に彼が逮捕されるまでつづいた。彼は当時なお30歳という若さであった。彼の健康状態は最高だったし、心理的、霊的能力においても最高の状態であった。彼がすでに背負っていた責任、彼がこれから着手しようとしていた事業上の責任、それらは彼の全身の力を必要とした。彼が北方の辺地にまで試みた旅行の場合、それは全く強健な体力を必要とするものだった。

第7章 運動は発展をつづけた 1801〜1804年

漁師達と共に暮らしたひと冬

 9月にベルゲンを去ったハウゲはトロンハイムへ徒歩で行った。彼の船はトロンハイムフィヨルドの外にあるヒトゥラ(HITRA)と呼ぶ大きな島のアウネイ(AUNǾY)で、彼と会うことになっていた。いろんな出来事の多かった長い旅路の涯、1802年の1月1日ころ、彼はトロンハイムに着いた。そしてすぐに彼の船を見つけに行った。悪天候で他の船が船出を躊躇していた時だったが、ハウゲと彼の船員達は出航して、その目的地イェスリンガーネ(GJESLINGANE)へ着いた。そこは北トレンデラーグ(NORTH TRǾNDELAG)のフォルデンフィヨルド(FOLDENFJǾRD)の北側にある、中洲と小さな島々からなっている場所である。冬の漁期になるとナムダーレン(NAMDALEN)やヘルゲランド(HELGELAEND)から何百艘にのぼる漁船がそこに集ったものである。

 ハウゲはその冬、漁師達と一緒に暮らした。彼は漁師達の、酒乱、喧嘩、獣的な生活をその目で見た。ハウゲの集会は彼らの注目をひくこととなり、やがては、彼がその日までに一度も会ったことのない激しい迫害に直面することとなった。
 漁期が終った時、漁師達はトロンハイム近郊の乾燥地へ捕縛した魚類を運んだ。ハウゲは船をおりて陸路ベルゲンへ帰ろうとした。然し彼がトロンハイムを出て南方に向ったとたんに、彼は逮捕されてトロンハイムへひきもどされた。そのころある狂信家に関する二つのケースがトロンハイムの官辺に報告されていたが、ハウゲは連?者と目されていた。レクスヴィーク(LEKSVIK)で、ひとりの兵隊が小さな子供を殺した事件があり、ハルツダーレン(HALTDALEN)では狂人の二人兄弟が、殉教者を気取って、初期の殉教者が耐え得たように、彼らも迫害に耐えうるかどうかを試みようとして、兄弟のひとりが、他の兄弟の腕を握って、燃える火焔の中へつっこんだのである。
 ハウゲは長官の伯爵モルトケの前で、自分を弁護して、彼が後で自らビックリした程、傲慢で激越な言葉を使った。もっともその理由は明白であった。彼は前記の二つの事件の発生当時その付近にいなかったのだから。狂信者に正しい霊的指導を、愛情をこめて與えるべき人達が、彼ら自ら気遣っている霊的狂信者の指導をおろそかにしていたのである。ハウゲは嫌疑を解くことに成功し、ベルゲンへ送還された。然しハウゲが、その伝道説教を通し、文書伝道を通して、ノルウェー全国民の間に與えつつあった影響は、前記の狂信者の事件と共に人々の口から口へ語り伝えられ、デンマーク、独逸にまで伝えられて行った。

エイケル EIKER へ、そして帰郷
 ハウゲはベルゲンの事業を監督してもらえる数名の協力者をもっていた。そのひとりは彼の義弟であった。彼は協力者との協議、事業の発展情況などを視察した後で7月にベルゲンを出発した。そして6ヵ月の予定で、山間地帯を訪問し、それからエイケル(EIKER)へ、それからベルゲンに戻る計画であった。彼の旅行日記を見ると、彼が会った人々の性格と習慣についての興味深い比較観察が記録されている。ソグネフィヨル(SOGNEFJORD)の内部地区に属するリスター(LYSTER)の人々についてハウゲは次のように書いている。「人々は勤勉で、質素で、機智に富み、開けてはいたが、彼らが地上のことしか考えていないことと、成上り者根性は、私を失望させた」と。
ハリングダル(HALLINGDAL)とヌンメダル(NUMEDAL)では、彼は多くの教区を訪問したが、どこでも現世に処する信仰者の態度と、永遠を慕う信仰を培うために、多くの教育指導の必要なことを痛感した。

 山間地区に住む人々は、殆んどといってよいほど、堅実な性格の持ち主であり、神の言に飢え渇いていた。彼らは信仰の証人として信頼の出来る人々であったし、彼ら自身に対して厳格な人々が決して少なくなかった。それだけに、彼は彼らに対して、罪人を嫌うあまりに、無害な人々を傷つけないようにと、しばしば忠告する必要があった。
エイケル(EIKER)の製紙工場は、まだ操業を開始するまでには至っていなかった。しかしミッケル・ハウゲは釈放され、工場の指揮をとることが出来たので、まもなく操業が開始されることになっていた。ハウゲはここに2週間滞在し、助言を與えることと、見逃されていた間違いの訂正をしなければならなかった。トーレフ・バッケ(TOLLEF BACHE)がハリングダル(HALLINGDAL)での伝道を終えて、エイケル(EIKER)に姿を現した。ハウゲはドランメンの彼の協力者の間に、有能な人物の必要を感じていたので、バッケ(BACHE)を説得して、そこに住みつくようにさせた。

 エイケル(EIKER)からハウゲはオスロへ行った。監督シュミット(SCHMIDT)が彼を呼んで逮捕したのである。監督はひどい聲で、ハウゲは釈明に手こずった上で、釈放されてチューネ(TUNE)に帰ってから監督に手紙を書いた。ハウゲはオスロフィヨルドを渡ってテンスベルグ(TǾNSBERG)の近くで、多分製塩工場を視察したらしい。そこから彼はシーエン(SKIEN)へ、そこからテレマルク(TELEMARK)を通過してベルゲンへ行った。
ある家で開かれた集会は愉快な終幕で閉じられた。テレマルク(TELEMARK)のホーレン(HOLLEN)で起こったことである。ハウゲの伝道集会がちょうど終ったころ、ブレーメル(BRAEMER)牧師がかけつけてきた。ハウゲはブレーメル(BRAEMER)を招待しておいたし、彼が時間に間にあうはずであったことを知っていたので、彼がした伝道説教の要点をくり返した。ハウゲの態度や話の内容はともあれ、ブレーメル(BRAEMER)は激昂してハウゲに詰めより、いきなり彼の頬をなぐった。ハウゲは会衆の方に向って冷静な声で言った「さんび歌を歌うことにしましょう。『穢れた霊よ、去れ!去れ!』を歌いましょう」と。会衆が歌い出すと、ブレーメル(BRAEMER)牧師はあわてて飛び出した。

 ハウゲ自身は、この事件のことを、彼の旅行日記から省略している。彼は山間地帯の人々と、海岸地帯の商業都市に住む人々との間に見出される性格的相違点を挙げているだけであった。彼はテレマルク(TELEMARK)についたとたんに、そこに住んでいる人達の、単純で質素な生活を見て、テンスベルグ(TǾNSBERG)やシーエン(SKIEN)の住民の贅沢で虚栄の生活とくらべて目をみはったことである。

極北地帯への旅

 ハウゲがベルゲンに着いた時、それはクリスマスに近かった。彼の商売は繁昌していたので、彼は2艘の船でトレンデラーグ(TRǾNDELAG)へ種子を運ぶ計画をたてた。深刻な種子欠乏に悩んでいることを知ったからである。1803年の1月、彼は4艘の小船隊をつくってベルゲンを出航した。途中でその1艘が難破したが、乗組員一同が無事だったので、ハウゲは損害を気にしなかった。トロンハイムでは、監督のシェーンヘイデル(SCHǾNHEYDER)がハウゲに対して、伝道にきてくれるよりも、種子を運んで持ってきてくれることを歓迎すると言った。ハウゲは彼に次のように答えた。「伝道に関する限り、私は常に信じてきた通り、会も信じている、人はまず神の国と神の義を求めるべきであって、そうさえすれば、他の一切のものがそれにそえて與えられると主が約束されているからである」と。

 極北への永い旅路は、はつらつたる年小の事業家兼伝道者ハウゲに、あらゆる種類の珍奇な経験をさせた。いつものように、そこでも多くの身の上相談の要求があった。ハウゲがそこに到着する以前に、二人の平信徒伝道者が、すでにその土地を尋ねていた。イヴェール・ガベスタッド(IVER GABESTAD)とオーレ・バッケ(OLE BACHE)はマールス(MAALS)河とマランゲン(MALANGEN)地区で、効果的な開拓伝道を試みたが、両人は土地の人々に、それぞれの職業に忠実でなければならないと教えることを怠っていた。キリスト教は世俗的な働きをやめるべきだというのは、古くから一部の狂信者の間で犯されてきた誤謬である。ハウゲがこの度の旅行を計画した理由はそのような誤解は急いで訂正しておかねばならないと思ったからである。聖書の教える真理と、それについての説教を、職業尊重の立場で説くこと、それがハウゲの旅行目的であったが、彼はそれ以上のことをした。この度の旅行で特筆しなければならないハウゲの仕事は、職業的可能性の発見で、彼の友人達が、後で立証して見せたところである。彼のやったことは、国家の経済的発展に大きな貢献をしたことになった。人々は北へと北へ移住し、自然資源を開発し始めたからである。

 イェスリンガネ(GJESLINGANE)では、ハウゲは彼の友人のアルント・ソレム(ARNT SOLEM)のために漁場を買った。ノールラン(NORDLAND)では、彼は有望な鉄鉱があることを耳にした。またロイ(LOY)島が売りに出ていることを知って、彼はクリストファー・ブラテング(CHRISTOFFER BRATENG)にそれを買わないかとすすめた。バルデュダーレン(BARDUDALEN)では、彼はノルウェー最大の瀑布バルデュフォスセン(BARDUFOSSEN)を尋ねた。実践的で、空想的な彼の心は、いつでもその目で、有益な仕事を追っていたのである。

 彼がここで注目したことは、瀧から落下する水流を減らすことと、その流れを変えることであった。そうすることによってそれも製材工場や????その他必要が痛感されていた数種の機械工場の動力源とすることであった。木材もそうすることによって低地へいかだにして送ることが可能となる。白樺や赤松の林が耕地のため焼かれていたので、灰も適当に集められたならポタッシュ(ジャガイモ)の製造に利用出来るはずであった。「私はドーブレ(DOVRE)山脈地帯のオップダル(OPPDAL)の人々に、ポタッシュ製造のボイラーをかしこに設置してはどうかとすすめた。」

スキーでサルツダレンへ

 1回の冒険で、ハウゲと彼の同僚達は生命を失うところであった。大吹雪でサルツダーレン(SALTDALEN)への道は、スキーにたよる外なかった。ハウゲのために山地の案内役をしてくれる男がいた。48時間の危険な冒険旅行の後で、彼らは道に迷ってしまった。彼らが携えていた少量の黒パンと肉は食いつくしてしまった。彼らは疲労で力がつきはて、ハウゲは病気になった。彼らは雪上に横になって休息をとることにした。ハウゲはコンパスを取り出して現在地を調べたところ北東に行くべきところを南東に進んでいたことを発見した。方向を転換して数里進んだところで、高い山の背へ着いた。彼らはそこから目的地を望見することが出来たが、なお14里の距離があった。ま夜中ごろ、彼らは一軒の家にたどりついたが、倒れこむようにして、その家の人に迎えられた。食事を與えられた後、たった2時間の睡眠をとっただけで、ハウゲは床を出て、家族の人々と共に教会へ行った。礼拝後、彼は数名の人々と会談し、再びフンデホルメン(HUNDEHOLMEN)に向って旅立った。この事業は、ハウゲが異常な体力の持ち主であったことを示している。

ラップ人とともに

 フィンランド人やラップランド人との接触から、ハウゲは多くのことを学んだ。彼らがバルスフィヨルド(BALSFJORD)で鯨を捕獲するやり方について、ハウゲは詳しい説明を書いている。彼が到達した極北の地点トロムソ(TROMSǾ)でも、ハウゲは教会を訪れ、後でフィンランド人に話しかけている。
「私はトロムソ(TROMSǾ)市に着いてから教会を訪れた。そしてその後で多くの人々と会い、キリスト者の任務について語った。彼らのある者はノルウェー語を理解したからである。彼らは私のメッセージをラップランドの人達に通訳してくれた。彼らのある者は、神の言を聞こうとする願いを明らかにし、数名のものは泣いて神の言に聞き入り、福音を受け入れる態度を示した。」

 全体として、北部ではハウゲはたいした迫害は受けなかった。しかし不親切な取扱いをうけた。それは文化の欠乏のせいもあったが、神の使信に対する意識的抵抗が見られた。数カ所では、宿泊を断わられ、食事の提供さえ拒絶された、それほど土地の人々は疑いの目で彼を見、露骨な敵意を示した。
 彼はどこへ行っても、そこで交わった人々について、詳細な観察を下している。イェスリンガネ(GJESLINGANE)では、興味深いいろんな人々が集まった。「どこの教区でも、われわれは言葉の発音、習慣、それから道徳観の違いを見出すことが出来た」ハウゲはラムダーレン(NAMDALEN)とブリニーエ(BRYNIE)教区の人々を愛した。なぜなら彼らの中には、よく読書し、物事について深く考える型の人々で、責任感が強く、礼儀正しく、そうした立派な生まれつきの徳性を発揮する者があったからである。
 ハウゲの船はイェスリンガネ(GJESLINGANE)より北上はしなかった。そこで彼は魚を積み、乾燥場へ輸送した。ハウゲがさらに北方に向って旅行をつづけている間に、彼の所有船の1艘の船長が専売法に違反する行為をした。それはセンヤ(SENJA)地区の交易権はトロンハイムの商人の独占するものであったからである。ハウゲは罰金を支払わせられ、そのうえ嘲笑される結果となった。このようなことが起こる度毎に、ハウゲがその同労者と使用人に対して、最低生活をしい、余分の金を聖なる献金箱に入れさせていたという悪評の種にされたのであった。

旅程完了

 センヤ(SENJA)からハウゲはブレンネイ(BRǾNNǾY)へ出帆した。そこでも力強い霊的目醒めが起ころうとしていたが、極北の各地の状況と同じで聖書的な指導の必要性があった。ナムソス(NAMSOS)に近いスールヴィカ(SURVIKA)では、ハウゲはオタール・カルセン(OTTAR CARLSEN)のために下宿屋を買った。やがてハウゲは、地方長官が、司法官に命令して彼を逮捕させようとしている事実を知った。そこで彼は急いでトロンハイムへ行きギュデゥブランデゥダーレン(GUDBRANDSDALEN)へと旅をつづけた。彼はイェステルダーレン(ǾSTERDALEN)のトールゲ(TOLGE)へ行った時、クリスチャンの友のひとりが銅鉱を発見したということを耳にした。ハウゲはさっそく会社を組織し、採鉱を始めた。しかしその繁栄は長続きしなかった。
 ハウゲはオスロ地区へ着いた時、多くの町や、田舎の村々をたずねた。彼はその北辺地区訪問旅行について多くのことを報告したかったのである。聴衆の中には、北辺地区へ移住して、事業を起こすと同時に、キリスト者としての働きをするよう、立ち上った献身者の数家族があった。いまひとつの目的は審判の日がきょう明日にもせまっているという誤った信仰が再び芽を出さぬよう確かめておきたかったからである。

 オスロの監督下の人々に、ハウゲは特別な愛情と関心を抱いていた。彼はノルウェー国内のどこの地区よりも、オスロフィヨルド周辺の町村をくまなく訪問した。ハウゲの単純な証言を用いて、驚くべき業をなし給う神を、彼が発見したのは同地であった。土地の人々が、ハウゲのことを「東方の人」と呼んでいたのは自然なことである。彼もまた彼らの中から最初の回心者と、信仰復興運動の同志が與えられたことを忘れなかった。ノルウェー全国民の霊的生活のためにも、ノルウェーの東部地区のクリスチャンの間に、正しいキリスト教の宣教と健全な生活が民家の間に営まれることが望ましかったのである。
ハウゲはまもなくふるさとのエイケル(EIKER)に帰り楽しいふんいきの中で暮す身になった。例の製紙工場はフルに操業していた。そこから彼はまたチューネ(TUNE)へ行った。彼の北辺地区への伝道旅行は、そこで完了したことになった。彼が1804年のくれにベルゲンへ帰るまでに、彼がノルウェーの南部で、どんな働きをしたか、別に語ることにしよう。

1803年の秋、フェーネフォスで

 ハウゲがいつ家へ帰ったか、そしていつふたたび家を後にしたか、正確なことは分っていない。年が暮れるまでに、彼が成し遂げた働きの分量から判断して、彼がチューネ(TUNE)を去ったのは9月中のことであったろう。ひとつ確かなことは、彼がテレマルク(TELEMARK)の一部とセッテスダーレン(SETESDALEN)までの伝道旅行をしたことである。
 この峡谷地帯の人々は、一般的にいって、彼らが受けた教育程度相応な、強健で質素で、生産的な人々であった。彼らはまた聖書についても、その他の書物についても、決して貧しくない理解をもっていた。彼らのある者は、その観察力において、尖鋭さと能力においてすぐれていた。私の目について最大の邪悪は、彼らが強いブランデーとビールを聖日の御祝いに暴飲することだけであった。

 セッテスダーレン(SETESDALEN)のエブイェ(EVJE)教区にビグランド(BYGLANDFJORD)に源を発するオトゥラ(OTRA)河が、瀑布となって落下するフェーネフォス(FENNEFOSS)がある。ここでもハウゲはキリスト者の労働と礼拝のセンターとして、また利潤の多い生産事業の開発を夢みた。「ここに私は製紙工場をたてた」と彼は記録に残している。かくしてフェーネフォス(FENNEFOSS)は、イェステゥランド(ǾSTLAND)のエイケル(EIKER)のように、セールランド(SǾRLANDET)のキリスト者の中心地になった。フェーネフォス(FENNEFOSS)のひとりの友人が、ハウゲに書き送った手紙の中に、新しく出来た工場が、宗教生活に與えた貢献を、次のようにかいている。
「当地の多くの人々は、神の言を熱心に聞こうとしている。そしてわれわれが建設した工場の発展をみて驚いている」

 ハウゲが峡谷を通って南方のクリスチャンサン(KRISTIANSAND)に向って進んでいた時、彼は多くの同伴者と一緒だった。ハウゲに対する彼らの愛情と、情熱は無制限だったと言ってもよいほどで、ハウゲと語りあう機会を楽しみにして、どこまでもついて歩くことを厭わなかった。このことは、彼らがハウゲに対して、信頼の出来る助言者、また友人として、彼らの中に占めていたハウゲの地位を格づけるものである。ハウゲは、彼らの情熱の行すぎを制御しようと努力したことを書いているが、同時に、それらの人々の多くが尊敬に価するキリスト者の生活を営んでいたこと、彼らの実際生活を常に改善しようと努力しつつあったことを喜んでいたのである。

1804年 クリスチャンサンで

 ハウゲは、トロムソ(TROMSǾ)への旅と、その帰り道で、2冊の本を書いているのだが、いつそんな時間があったのか、驚嘆に価する。北方への旅行中、彼は祈りについて1冊の本を書いた。著書の題はそのまま内容を語っている。「神の子達の、創造者なる神との会話についての反省、父なる神に対する週日の朝な夕なの祈りと、食前食後の祈り」ノールランド(NORDLAND)からの帰り道に彼が書いた著書の名は「マルチン・ルターの教理問答にしたがって、5部に分かれた律法と福音についての解説」である。

 後者は、特に聖書研究者の興味をひいた。彼はその中で使徒信条の第二項の言句を問題にしている。彼は「よみにくだり」は、「死して葬られ」の前に置かれるべきであると主張する。彼は「よみにくだり」とは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に表現されているキリストの霊の苦悩を言い現すものだというのである。キリストはその死の瞬間に「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われた。

 ハウゲは次のように主張する「キリストがその死後に地獄へ降り給うたという事実は、聖書のどこにも書いてない。聖霊の証言もない。彼の霊が彼の肉体を離れていた間に、彼は地獄へ行くことが出来た、彼の霊は神から離れて地獄へ行くことが出来たと考える根拠は発見されないと。キリストが「獄に捕われている霊どものところに下って行った」(ペテロⅠ3章19節)という聖句とどう調和させるかという困難な問いに対してハウゲは言う「それは主の御復活後にあったことだ」と。

 監督バング(BANG)は、ハウゲのこの主張を批判して次のように言っている「ハウゲは、「よみにくだり」が「3日目によみがえり」の前におかれているから、キリストの死の直前になにかがあったことを意味すると考えたところに誤謬がある。キリストは「肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである」(ペテロⅠ3章18節)。地獄にくだり墓にあったその肉体の御復活が成就する前に、獄に捕らわれている霊どもに福音を説き給うたのである」。ハウゲのこの点に関する教えは、彼の個人的な冒険的提案に終ってしまった。重要なことは、ハウゲがそのような発見から何を学びとったかという点である。」

 この解釈に対して、人がどのように思うにせよハウゲが試みた系統的説明自体、彼がいかに独自の考察に徹し、その所信を表明するに大胆であったかを証明するものであろう。
前記の2冊の本は1804年の初めに、クリスチャンサン(KRISTIANSAND)で発行された。このころ「キリスト教教育の基礎」の第三部も出来上がった。本書の初期にハウゲのリヴァイヴァル運動の機関紙の一種として紹介したものがそれである。古い著書のうち何冊かが再版された。それらの中には教職に対して苛烈な批判を加えた「平凡人の学問と、無力なものの力量」がある。「最も攻撃的な表現」の一節は、後日内務省が指令したハウゲ逮捕の理由として引用された。

ベルゲンへ ―― そして商売を

 クリスチャンサンを出て西部へ旅立ったハウゲは、セッテスダール(SETESDAL)での経験をくりかえさねばならなかった。あまりにも多くの人達が何里も彼と連れ立って歩くので、彼らの時間を尊重して、集会をするために時々休息した。しかし群衆を収容しうる大きな家を見つけることは容易でなかった。
スタヴァンガーからベルゲンへ行く時、ハウゲは便船を利用した。彼が市民権をとったベルゲン市へ帰還したのは、北辺地区への伝道旅行に出発してから1年と3ヵ月後のことであった。彼はほとんど徒歩で4500里を踏破したのであった。

 ベルゲンへ帰ってからの彼は、経済企画の天才としてキリスト者の社会に奉仕した。スンフィヨルド(SUNNFJORD)のフローレ(FLORǾ)の南西に売りに出されていた島があった。彼は今ひとつの霊的な灯台をたてたいまぼろしを見て夢中になった。キリスト者の愛情と、勤勉の模範を示すことによって、同地区の人々を祝福することが出来ると思ったのだ。彼はただちにそこに出掛けて島を買い、ハリングダール(HALLINGDAL)から若い夫婦を呼んで、そこに住まわせた。
ベルゲンの近くに、ハウゲが買入れ酒乱を克服させるためにひとりの友人に貸し與えていた家があった。そこには3軒の製粉所があったので、彼に監督の責任を任せた。責任をもたせられると古い飲酒癖を克服できるであろうというハウゲの念願からであった。それがうまく行かなかった時、ハウゲは同志の夫婦に、その仕事をやらせた。そして事業は繁栄した。

 ただひとつ、ハウゲがやったことで完全に失敗した例がある。ハウゲはドランメンにもって行けばいい値で売れる見込みで、オスロで大きな船を買ったことがあった。それが売れなかったので彼は大損をし友人のトーレフ・バッケ(TOLLEF BACHE)から金を借りた。彼はその手紙の中で、自分のやったことが賢明でなかったことを認めている。しかし全体として彼の商魂によって、ハウゲの同志達は、物質的に恵まれたといってよい。彼がベルゲンを去った時、彼の頭の中は計画でいっぱいであった。彼はデンマークへ、木材、鉄、馬を輸出して、その帰り船で穀物を輸入しようとした。

第8章 自由の身もあと幾月 1804年7月〜10月まで

 1804年の7月、ハウゲはベルゲンを去った。そしてクリスチャンサンへ向けて出帆し、デンマークへ渡った。バング(A.C.BANG)は、ハウゲが途中で出会った漁師のことを語っている。ハウゲが彼にどんなことを語ったかは不明であるが、別れ際に1冊の本を手渡しひと言ふた言語ったようであった。この漁師はその本を一生大切に持ち歩き、70歳になってから、神への信仰を告白した。

 クリスチャンサンで、ハウゲが気がついたことは、彼が要注意人物になっていたことだった。彼のひとりの友人は、デンマークの国務省が、ノルウェーとデンマークの監督および地方長官あてに出した通告を見せた。その内容は、ハウゲとその同志についての情報を提供されたいということで、理由はハウゲが非合法な事業に従事しているという報告を受取ったからだということであった。「わたしは、この通告を見たときびっくりした。私自身、私の意図や、私のやり方に法律に違反する面がないことをよく知っているのに、官憲は、単なる照会があったからとて、ただちに人を罪人扱いするとは信じ難いことだった。」とハウゲは回想している。

 ハウゲのこの驚きは、事実に対する政府の公明さについての、彼の素朴な考え方をばくろするものともいえる。後で明らかになることだが、彼の活動を抹殺しようとする計画が着々と進捗しつつあった事実について、彼は全くつんぼさじきにおかれていたのであった。

監督 ペーデル・ハンセン

 クリスチャンサン(KRISTIANSAND)の監督で、デンマーク人の合理主義者だったペーデル・ハンセン(PEDER HANSEN)は、前年彼が、発表した牧会書簡で、ハウゲの同志達に深刻な打撃を與えた。彼がクリスチャンサン(KRISTIANSAND)から、デンマークのオーデンセ(ODENSE)へ転任を命じられる少し前のことだった。彼は、自分の管轄区内の牧師達に、狂信的信仰の原因、性格、資料などを挙げ、それを阻止する最善の方法は、浮浪者で予言者を名乗るハウゲと、彼に従う同志らを追放することであるとその書簡の中で述べた。

 合理主義神学の青くささは、狂信的信仰を批判する監督ハンセン(HANSEN)の牧会書簡にばくろされている。「純正キリスト教は、信者が子供のような信頼と確信をもち、聖潔すなわちキリストがわれわれに対して與えられた義務をはたすために真剣に努力し、主の模範に似るものとなって、神を喜ばせることである」と彼は書いている。もっと悲むべきことは、このような人間的な意見しか述べられない合理主義神学にたつ牧師にとっては、真に福音的な信仰、謙虚な人々によって信ぜられている信仰の内容を理解しうる筈がないということである。

 ハンセン(HANSEN)はポントピダン(PONTOPPIDAM)の解説を使うことをやめ、式文の中にある超自然的な表現を書き改め、新しいさんびかを受け入れようとした時、反抗にあったためにクリスチャンサン(KRISTIANSAND)の平信徒達に対して悪感情を抱いていた。彼は、反対者はハウゲ一派のものと思っていたが、それは誤解で、彼の改革案に反対した者は外のグループの中にもあった。

 1804年の4月、ハンセン(HANSEN)はレンネスェイ(RENNESǾY)のハイベルグ(HEIBERG)牧師からハウゲ一派に対する苦情の手紙を受取った。ハンセンはコペンハーゲンの政府に対して、ただちに強硬な手紙を書いた。
 私は、H・N・ハウゲが、個人として、また彼に属する者らと共に、いまやノルウェーの王国全土をわんとしつつある、無礼な、僭越な迷惑行為を、一刻も黙って見ているわけにはいかない。

 ハンセンは同一書簡のなかで、ハウゲは革命的野心を抱いているといい、マホメッド教徒の指導者アブデゥール・ヤハブ(ABDUL YECHAB)とハウゲを比較している。ヤハブ(YECHAB)はイスラム教の浄化をめざしてトルコに対して血みどろの聖戦を開始した男である。その聖戦は、ハンセンが、ハウゲを非難して、国家にとり危険な人物だとデンマークの大使館書記官に書き送った年の前年1803年には、なお交戦中だったのである。
 ニールス・シヴェルツセン(NILS SIVERTSEN)は、デンマークの大使館がハウゲに対して積極的な行動を起こしたのは、クリスチャンサンの監督の手紙によるものだという意見を述べている。今やハウゲはノルウェーの二重王国制の解体と独立獲得運動を煽動する政治的脅威と見られることになった。ベルゲンの監督ブルン(BRUN)はハウゲのために、信書を與えて、彼は1789年の革命以来フランスのヤコービンス(JACOBINS)によって助成された政治的急進派に属する人物ではないことを保証した。しかし彼はハウゲの同志達の企業精神とその活動に対して、政府は注目すべきであると言った。ブルン(BRUN)がこんな手紙を書いてから6年後になってハウゲの伝道に対する政府の見方は大きな変り方をした。最初は全然危険のない宗教運動だと思われていたが、今や恐るべき下層階級解放運動の姿を見せてきた。原動力は宗教的霊感によるものだが、今や経済的財政的基盤をもった運動となり、その指導者の統率力には、恐るべきものがあった。特に農民の間でそうだった。

その他の文書による攻撃

 ハンセンの手紙は、ハウゲを警戒せよと政府に訴え出たノルウェーからの最初の手紙ではなかった。コペンハーゲンで発行されていた月刊宗教誌に、ノルウェーに駐在していたデンマーク人の牧師エイレル・ハーゲループ(EILER HAGERUP)の手紙が掲載された。それは1803年のことだった。ハウゲの名をけなすために、冷笑的な文句でうまく書かれていた。そのなかにはトロンハイムに近いラインステゥランド(LEINSTRAND)で、ハウゲはお人よしの改宗者から200,300リクスダラーにのぼる全財産を巻きあげたという報告があった。ハーゲループ(HAGERUP)はまた、筆にまかせて彼が会ったハウゲとその一味の風采や、癖を冷笑的に書きまくった。その手紙は悪意にみちた次のような文句で結んであった。「このような邪悪をまき散らすものよ、呪われよ・・・」
ハウゲが執筆した書物は、とくにハーゲループ(HAGERUP)をいらいらさせた。彼は、彼の第二の手紙の大部分を費やして、彼がいう「特筆すべき全くの狂信」に対して、ありったけの悪罵をあびせかけた。

「・・・これらの著作は、国家の位置と、土地所有者の位置を危くするもの、神の教えと道徳についての狂気じみた意見、真の宗教と道徳を傷つけるもの、何ものをも擁護するものではなく、全く狂気じみた、全く狂信的な著述である・・この世の中で発見されるナンセンスの中で、もっとも非難に価するもの、聖書につながりをもたない、聖書からの引用句で織りまぜた作文である」と。

 同誌はまたハウゲに対する悪評と、古くから伝えられている噂、たとえばトロンハイムであった殺人事件の責任者は彼だとか、彼はその企業で20万リクスダラーを儲けたとか、飢饉に際して穀物で改宗者をつのったとか等々、書きたてた。そんなわけで監督ハンセンの手紙がコペンハーゲンに着いた時、当初、証拠のない情報として伝えられていたことからが確証されたとして、教会の指導的地位にある聖職者の名声があがめられることになった。デンマーク政府は、今やハウゲを沈黙させることの必要を痛感しだした。ハンセンの非難はこうしてハウゲにとって大変な打撃となったが、今ひとつ、ハウゲの運動の非合法性を指摘する者が別な方面から現れた。

北辺からの報告

 1804年の6月23日、政府は一通の報告書を入手したが、その内容はある特定の犯罪容疑に関するものであった。1年前のことであったがハウゲ所有の船の船長が、トロンハイムの商人が交易を独占していた地域で、越境商取引をした事件があった。ハウゲは罰金を支払った。ところが当時の調書が政府へ送付され、末尾に次のような意見がそえてあった。「ハウゲは聖人の仮面をかぶって、市民達の所得から利益をだまし取り、彼らの素朴さを利用して、自分の富をきずき上げている」と。もちろん、ハウゲは同志達との合意で、使用者に支払った給與の外に純益として残ったものを、福音宣伝のために使用することと、使途については一任されていたのである。地区の司法官が長官に送った報告書には「最低の生活を保証するだけの給與を支払って、その残りの金は悉く、神の栄光と、御名があがめられることと、人々の回心のために使われることになっていた」と書いてあった。もしそれがハウゲと同志達の間で交わされてあった取りきめであったら、そして使われていた人々に適切な給與が支払われていたとすれば、違法呼ばわりされる根拠は何ひとつなかったのである。

 地方長官は、地区の司法官がハウゲを罰金刑で済ませたことを残念がった。そこでハウゲが、被使用人の給與(FORTJENESTE)の一部をハウゲがピンハネしているらしい含みのある言葉を発見した時、彼はそれを追究することにした。事実、彼の報告書の中には、雇人の給與(FORTJENESTE)の一部をハウゲがピンハネしていたと書いてあったのである。

 大使館は、ハウゲのために犠牲になっている人々から事実を聞き出して、ベルゲンの長官のもとに報告するように命令した。フィンマルク(FINNMARK)のマランゲン(MALANGEN)から、ハウゲの有罪を確認する報告が到着次第、直ちにハウゲを逮捕せよとの指令がベルゲンへ送られたが、郵便の遅着により、マランゲン(MALANGEN)での諮問は6月まで開始されなかった。その間に、政府は別な行動を開始していた。

 1804年6月2日、デンマークの大使館書記官はノルウェーとデンマーク両国のすべての教会の監督と、地区の長官達に対して通達を送った。ハウゲはそれを7月にクリスチャンサン(KRISTIANSAND)で読んだ。その内容は、短文であるし、重大な意味をもっているので次に収録することにする。
「本省は、ハウス・ニールセン・ハウゲと、その放浪癖のある同志達が、狂信的な教と書物をノルウェーの庶民の間に配布し、献金をうけ、国家の最高権威者と教職に対する不信感を起こさせ、生活の資をうるための勤労意欲を喪失させ、気の弱い人々を絶望させつつあるという報告を幾度も受取った。そこで本省はその職責上、名誉ある各監督(および地方長官)方が、それぞれの管轄区域内のハウゲとその同志達の活動についての、正確な報告を提供するよう、また各位が、最も効果的だと確信される、弾圧方法について意見を提供されるよう要請する1804年7月20日デンマーク国大使館」

 7月の終りごろにはたくさんの回答が、コペンハーゲンへよせられた。それらは急いで書かれたらしく、事実無根の悪罵嘲笑がいっぱい書かれてあった。
ハウゲの責任を問いうる材料を見出すには、彼の古い著述を調べればよかった。さきにも述べたように「平民の学問と無力な人々の力量」は、その年の初めにクリスチャンサンで再版された。それは1798年、ハウゲが回心してから2年目、そしてオスロで彼が8日間の間に2回逮捕された直後に書かれたものである。同書の内容は、ハウゲ自身が認めているように、権威に対する無遠慮な言葉が使われていた。

「此の世の牧師達は、悪魔の会堂で学び、シモンと同じように、聖霊を金で買へると思っている。彼らは私の著書を悪魔のように批判しながら、悪魔の道具になっている自覚がなく、彼ら自身の腫物を切開する必要を無視している」

 これに類する表現は、コペンハーゲン市の司法官の目にとまっていた。ハウゲが1800年デンマークへ最初に旅立った時、同書を彼自身寄贈していたのだから。当初は司法官自身、注意を払わなかったが、気がついた今、彼はこの危険な書物に、彼自身の報告を添えて当局へ提出した。

再びデンマークへ

 そうこうするうちハウゲはクリスチャンサンを出発してデンマークへ行くことになった。こんどは6月30日に大使館書記官から発表された告示を見ていたので多少は警戒していた。彼はまた監督ハンセンの「狂信者」に対する牧会書簡を見ていた。ハウゲはその後監督の書簡に対する反駁を書いたが、それを発表する機会をもたなかった。
 ハウゲがデンマークへ旅立ったのは、同地の目醒めたキリスト者の群れから招かれたからであった。彼はまたコペンハーゲンの一流どころの権威者に集まってもらって、自分の見解を聞いてもらう計画をたてたが、それは中止した。

 1804年ごろのデンマークの宗教界を構成していた数種の対立から、ハウゲのデンマーク訪問の結果は、ノルウェーにおけるような成功をおさめることは出来なかった。彼のそのころの旅行日記は、かんたんで、断定的である。「少数の人々が私との話しあいを喜んでくれただけである」とハウゲは書いている。デンマークでも1800年から信仰の覚醒がみとめられた。信仰復興の形態もノルウェーの場合に似ていた。職業化した牧師でリヴァイヴァルの本質を理解しないものや、新しく勃興した信仰的情熱を喜ばないものがいた。バング(BANG)は次のように言っている「デンマークの目醒めた信者達、いわゆる強いデンマーク人達が、合理主義にかたむいた牧師達に加えた攻撃のしかたはノルウェーの場合よりも急ぎすぎたようである」賜物に恵れていた平信徒のリーダー格ペーデル・ラールセン(PEDER LARSEN)は、合理主義者のさんび歌を用いようと試みた牧師達の計画を阻止しようとして、牧師の説教、礼典執行、その家庭生活等々をやゆした8項目にわたる告発状を発表した。

 ラールセン(LARSEN)は1803年にハウゲに手紙を送り、ハウゲはオーレ・オールセン・バッケ(OLE OLSEN BACHE)をデンマークへ送って伝道させた。ハウゲの著書は広く読まれ好感をもたれていたが、ラールセン(LARSEN)と、その同志達は、祭壇での礼典についてのハウゲの主張には失望していた。ハウゲは、ふさわしくない精神状態のまま主の卓上に近づいてはならないと警告し、信者が聖餐にあづかりながら清められない状態で教会を去らないようにと望んだ。然しキリストの御臨在についての彼の教えは不明瞭であった。この点での見解の相違と、ラールセン(LARSEN)の側のいくぶんかの嫉妬心から、両者の間に張りあいがあった。たしかにラールセン(LARSEN)にはハウゲにまさる教養があった。しかし彼にはハウゲが多くの信奉者をその周辺に集め得たあの親愛感にかけるものがあったと言えよう。

 ハウゲはいつものくせで、デンマークでも、国民性と習慣の観察に興味をもち、デンマーク人はその霊性の救いを求めている人達の間でさえ、ノルウェー人にくらべて、より世俗的であり純粋さを欠いていると結論している。しかしデンマークの農民達が、ぜいたくな王様のような生活をしながら、ノルウェーほど酔っぱらいがいないことに気づいていた。ハウゲは遠くホルスタインのクリスチャンフェルト(CHRISTIANFELT)まで旅して、モラビアンの会衆達と共に4日を費やした。彼はそこで外から見たモラビアンの生活、教義上の大きな見解のへだたり、特に「??」には同意できなかったが、それでも彼らのキリスト者の友情に満ちた交わりを楽しんだ。

 ステネルセン(STENERSEN)教授は、1804年度のハウゲのデンマーク巡回旅行を評して、結果がかんばしくなかったのは、あまり旅程を急ぎすぎたからだと言っている。彼の不成功の予感と、彼自身が言明しているように、政府が彼を追いつめている時に、彼は祖国にあるべきだと考えたのであろう、彼がまもなくノルウェーに帰還したのは驚くにあたらない。

 ハウゲがデンマークの首都を離れヘルシンゲェール(HELSINGǾR)へ行き、そこからフレデリクスハルデゥ(FREDERIKSHALD)へ出帆した時、たった1ヵ月間の伝道の自由が残されていただけだった。しかもその最後にあたって、彼の援助を必要とする者があらわれた。
 彼がフレデリクスハルデゥ(FREDERIKSHALD)から彼の両親の家へ向かって歩いていた時、彼はヨン・セルブレーデン(JON SǾRBRǾDEN)を訪問するために立ちよった。ヨン(JON)は彼の年老いた父が死の床にあった時にハリングダール(HALLINGDAL)へ伝道旅行に行っていた。ハウゲのその時の訪問は、悲しんでいた息子達や娘にとって、神さまがお贈りになった時にかなった助けであった。

 ハウゲの両親は特に喜び、今度は息子が家に帰ってきてくれたので救われた思いであった。なぜなら全国の官憲と教界の権威者達が、ハウゲの行動に関する多くの情報を集めていることを両親は知っていたからである。チューネ(TUNE)からハウゲはもういちど伝道旅行を試みた。そこの人々は、ノルウェーのどこの人々よりも、彼の真直な姿勢と彼の朗々たる声に深い馴染みをもつ人々だった。それはオスロフィヨルドの周辺、オスロ、ドランメンを通ってシーエン(SKIEN)の近くのイェルペン(GJERPEN)へ、それからホクスンデゥ(HOKKUSUND)とエイケル(EIKER)へ帰る旅程だった。

 大勢のハウゲの友人達が製紙工場へ集まりハウゲを迎え、ハウゲに説教を求めた。やがて彼が姿を現した時、彼は会衆のひとりひとりと握手し個人的な挨拶をかわし、兄弟としての忠告を與えた。やがて集会は始まり、会衆は「神の言を伝えるすばらしい賜物をもっていた」この人物の、最後の説教に耳をかたむけたのであった。

第9章 ハウゲ逮捕される 1804年10月24日

「ある日、私が製紙工場の全景を見守っていると、エイケル(EIKER)の監督管轄区の執行官が、司法官から派遣されてきたと言って挨拶した。しかし彼が私に用事があるというのはうさん臭いので私は警戒した。私には逃亡のチャンスがあったが、私は官憲を怒らせることをおそれた。執行官は、路上で私に向って逮捕にきたこと、鉄格子の牢の中に入れてやると言った。その通り私はホクスン(HOKKUSUND)の刑務所へ入れられた。1804年の10月24日の夕方のことである、司法官は私を鉄の鎖で縛っておくように看守に命じた。

 その夜私は静かにそして甘い眠りについた。私の心が全く落ちついていたからであろうか、この1年の間に、かつて経験したことのない安らかな眠りだった。私の良心はひと言も私を責めなかった。私は正しい意図をもって、私の根本が邪悪に支配されることを、全力をもって阻止しようと努力してきただけだった。私には、私が無実の罪に問われている確信があった。
 私の友人のあるもの、また会ったことのない人達がホクスン(HOKKUSUND)の私に会いにきてくれた。そんなわけで獄中の生活も案外たいくつではなかった。ここでも、私の初期のまたその後の企業についての訊問があった。また説教をやめる気はないかという質問もうけた。私は、私の子供らしい教えに従って、自分の生活を指導するつもりだと答えた。」

 ハウゲの逮捕を命じた政府の回状が10月30日まで発表されなかったのに10月24日に彼が逮捕されたのは何故だったか?エイケル(EIKER)の執行官イェンス・グラム(JENS GRAM)がハウゲに敵対的な行動に出たのは、個人的な敵意からであったと思われる。彼こそ司法官のコレット(COLLETT)に、ハウゲがホクスン(HOKKUSUND)で集会を開いていることを報告した男であり、欺瞞的な手段で、ハウゲ逮捕の命令を出させた男である。1798年のお正月の夜、冬の夜の静けさを破って馬にはげしくむちをあてながらハウゲ逮捕に向ったイェンス・グラム(JENS GRAM)の裏をかいた大胆不敵なクリストファー・ホーエン(KRISTOFER HOEN)が橇でハウゲを脱出させることに成功したその夜から、彼のハウゲに対する敵意はつのるばかりだったのである。

 しかしグラム(JENS GRAM)にして個人的な敵意から、ハウゲを逮捕出来る場合は、その地区の情勢次第であった。1741年の集会禁止法は、平信徒の巡回伝道を禁じていたが、それは当時なお有効であった。1750年の放浪禁止法は1798年になって、いっそう強化されることになった。それ以後、ハウゲは旅行許可証を携えることを忘れなかった。1797年の独占法をハウゲが雇っていた船長のフィンマルク(FINNMARK)が破ったが、ハウゲは罰金を支払った。したがって事件は解決済みであったのに、歪曲されて伝えられたハウゲの「聖なる目的のための献金箱」の真相追究を、政府が命じたのである。6月30日気付の政府の回状の中には、ハウゲを逮捕せよという指令はないが、政府が彼を国家にとって危険な人物と注目し始めたらしいことが読みとられる。

 10月30日気付の政府発行の逮捕状を読むと、ハウゲに対する当局の疑惑は、彼がその著書の中で用いている、不遜な字句と、彼の企業について違法行為があるという事実を曲げてなされた報告書にあるらしかった。11月1日からホクスン(HOKKUSUND)で開廷された訊問に際して、ハウゲは信仰的な集会を、今後もやめるつもりはないと断言している。そのことは、彼の伝道使命感と、地区の官憲が危険視していたことを裏づけるものである。

 歴史は知る権利がある、「なぜ政府がハウゲ迫害の挙に出たのか?」彼が逮捕された直接の原因を明らかにするだけでは、結論的な答えは出てこない。内務省の態度をきめさせた要因のあるものについては、すでにふれた。これらの要因を歴史的に見透し、後で縦横に論じて見たい。
 ここではハウゲ自身のことがらに帰ることにする。11月1日に行われたハウゲの訊問の結果は大使館に報告され、処置についての指令が求められた。それに対する回答はハウゲをそのまま監禁し、ハウゲ所有の書物と手紙を押収せよということだった。教区に住む富豪のあるものはハウゲの保釈を求めて、保釈金を積むことを申し出たが拒絶された。
ハウゲは完全に、聖霊に頼っていた。真実は明らかにされるべきだった。かりに彼がなおしばらくの間苦難に耐えねばならないとしてもそのことによって神の子らは目を醒まし、祈りに励むことであろう。ハウゲはホクスン(HOKKUSUND)の獄中で、多くの手紙を書いて友人達に送った。「私に1000の生命があったとしても、神の言の為には、喜んで鉄鎖につながれるであろう」と彼は言った。ホクスン(HOKUSUND)の獄中の1ヵ月間に、彼は「キリスト教会のための祈り」を書いた。彼は、彼自身の為に、彼の友のために、また彼を迫害する者のために祈った

「父よ、あなたは、頑冥な暗黒の中を歩み、あなたの証人、あなたの礼拝者を告発する者の無知の深さを御存知であります。彼らを耐え忍び、もっとも有効な手段を用いて、彼らの目をさまし、啓蒙し、確信を與え給わんことを・・・またあなたの僕達をして、あなたの真理を擁護するために力を、勇気を、知恵を、謙遜を御與え下さいますように!またあなたが私達の中にお始めになった業をなさしめ、あなたの聖なる御名のために、御名を賛美するために、私達の霊魂の救いのために前進せしめ給うように」

 11月16日、ベルゲンにあるハウゲの資産を没収するようにとの指令が出された。17日には地方長官のラーフン(RAFN)に、ハウゲをオスロのまで厳重な監視をつけて移送するようにとの通達があった。21日になってラーフン(RAFN)は、代理人のグラム(GRAM)に、その指令を実行するように命じた。護送は夜中、極秘裡に行われた。教区内のハウゲの友人達が集合していたので、ひと騒動持ちあがりそうな気配だったからである。

 オスロへの護送日の旅はことなく実行された。ハウゲは彼の宿敵イェンス・グラム(JENS GRAM)と同席したが、彼が宗教に無関心だったので、ハウゲは国内のあちらこちらに彼が建設した愛国的な企業や設備について語った。彼はそれらの企業が閉鎖された場合、幾人の失業者が出るかということが、彼の頭痛の種だったのである。しかし彼には確信があった「私は、私も祖国と同胞のために、彼らの現実の社会生活と、永遠の生命のために能う限りの努力をしてきたのだから」と彼は言った。
 かつては無名の農夫のせがれだった男、彼が小さなパンフレットを印刷にふしたいと思ってオスロへの最初の旅に出てから8年半のことである。今は政府の手に捕えられ、鉄鎖につながれ、囚人用の車に乗せられて、オスロへの道を揺られながら護送されて行く。行く手に待っていたものは、不当な裁判であり、永いそして残酷な監禁生活であった。

次回「第3部 ノルウェーの囚人 10〜13章」へ続く >

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