「愛農会で学んで54年、私の生き方実践 小谷先生からの学びと聖書との出会い」

昨年12月21日、伐採作業の事故のため池野雅道さんが77歳で突如他界されました。
池野さんは23歳の時、愛農会の創始者である小谷と聖書との出合いによって、人生が大きく変えられたようです。池野家では山林と養鶏と水稲の複合経営をしていましたが、その中に「愛農養鶏法」を導入して、直販のルートをつくり、仲間と共に1982年に愛農流通センターを立ち上げました。センターを拠点に名古屋を中心とする消費者との提携、仲間づくりを実践してきました。まさに最後まで「愛農運動」の先駆的な働きをされてきた方でした。彼の地で、笑顔の小谷に迎えられ、大きな声で歓談している姿が目に浮かびます。
池野さんが他界するわずか3日前である12月18日、「韓国・中国・日本平和交流会」における早朝講話の講師として大役を担ってくれました。「小谷先生からの学びと聖書との出合い」というテーマで、愛農会で学んだ54年、池野さんの人生について語っていただきました。今回はその早朝講話のエッセンスを抜粋して、池野さんの愛農人生を垣間見させていただきたいと思います。
愛農学園ニュース編集部
「愛農会で学んで54年、私の生き方実践 小谷先生からの学びと聖書との出会い」
池野 雅道さんの講話より
小谷先生が昭和25年くらいに最初に書かれた本(愛農救国の書)があります。これに小谷先生は愛農会の基本的な考え方やなぜ愛農会をつくったかという思いなど、いろんなものが入っています。その中の一つに「各地で愛農塾」をつくれということが書いてあります。私たちが愛農会で学んだことをもとに、各地域で、村づくり、地域づくりをやれというのです。それには核が必要になる。そのためには塾が必要になってくるわけです。わたしも地元でやろうと考えて、小谷先生直筆の「愛農塾」という看板を書いていただいて、今でも大事に掲げています。
私は2年間公務員をやっていましたが、農家の長男でしたので、23歳の時に家に帰って農業をすることになりました。あまり出来の良くない後継者でしたので、親父が精神修養してこい、ということで愛農に送り込まれました。その頃、愛農会では愛農短期大学講座という20日ほどの研修会がありましたので、そこに参加することになりました。 その時に初めて、いろんな教科書と一緒に聖書をいただきました。それが聖書と私との出会いです。講座で学んでうちに帰ってきて、2年間、親父と一緒に農業をしました。25歳の時に結婚したんですけど、その時に親父から、養鶏をお前に任せるからやれと言われました。うちは養鶏がメインの仕事でした。その頃は農協から餌を買って、ヒヨコを買って、卵も農協出荷なんです。そうするとちっとも儲からないんです。
私が公務員を辞めた時に、なぜ公務員を辞めて儲からない農業をするのかと地域から不思議がられました。当時、愛農会では、愛農養鶏法というやり方があって、これはよく儲かるという話を聞いていました。それで近くに愛農会員で愛農養鶏をやっているところに見学に行って、すぐ愛農養鶏に切り替えました。
そのころ、どこの地域でもそうですけど、農協中心で村づくりをやっているものですから、農協から餌を買わない、ひよこを買わない、卵も自分で売り始めるということで、農協との軋轢のようなものがあって、それはやっぱりすごくプレッシャーに感じました。
それでも愛農養鶏の自家配合にしたら卵の質が良くなりまして、地域で評判になりました。さらに都会の方では食に対する不安・食品公害という事態がおこってきまして、街の方々が食べ物に対して不安を抱くということが社会問題となりました。そんな中で、餌の内容が分かっていて、卵の質が良くて、人柄もあったかもしれませんが、ぜひ池野さんの卵が欲しいという消費者が増えて、それで卵が足りなくなりました。その需要に応えるべく愛知、岐阜、三重に愛農養鶏の仲間が増えていきました。さらに、初めは何もないところから19名の愛農の仲間に出資を募って、愛農流通センターを立ち上げました。
最初の一期目に1億6千万円の売上がありました。ちょうどその頃小谷先生が、これから愛農会は有機農業に転換していこうと叫びはじめました。混乱はありましたけれども、それを実践する農家が全国にできました。長野からリンゴ寄せたり、和歌山からみかん寄せたりしながら、どんどん消費者に提供していただきました。 それで愛農流通センターも仕事が忙しくなり、会社のことを考えるためには、きちっと正社員を雇ってやらないといけない。それまでは農家が配達していました。
それで、じゃあ誰を連れてこようかと思った時に、あ、そうだ、同じ教育を受けている愛農高校生がいるじゃないかということで、愛農高校生に来てくれと頼んでですね、たまたま愛知県にもいましたので、声をかけて、来てくれたのが江端貴君です。江端君は、愛農高校を卒業して専攻科に行って19歳でうちに来てくれて、ずっと流通の仕事をしてくれました。彼を生かすには会社経営を早く渡した方がいいと思って、僕が64歳、江端君が48歳の時に、「やるか?」と言ったら「やります」と言ってくれたもんですから、会社経営を譲りました。
社長を降りて、家へ帰ってまた農業を始めました。うちには子供が3人いまして、それで長男と長女が愛農高校に学びました。ですが、長男が32歳の時に突然心臓麻痺で亡くなって、昨年お兄ちゃんの後を継いで農業をやっていた次男までが亡くなってしまって、今大変な状態なんです。だからこれからどうやっていったらいいか、非常に迷っているのが現状なんです。私は1947年生まれで、今年77、もうすぐお正月が来たら78になりますかね。いい年は年なんです。ということで非常に緊張感のある毎日を送っています。
ここも中山間地帯ですが、後継者がいないんです。農業のやり手がいないんです。もう耕作放棄地が至る所にあって、これからどうするんだという状況が続いています。愛農の生産組合の仲間で養鶏を辞めたけど後継者がいない養鶏場を借りて愛農流通センターが直接経営していますが、できたら愛農高校卒業生で農業をやっていない子に何とか紹介してやっていきたいということを願って直営農場にしている状況です。
私の経営規模は、ケージ養鶏で2700羽、平飼いで1000羽、水田が4ヘクタール、山が8ヘクタールくらいあります。それからあと、農家民泊といって宿泊施設、ペンションを1棟持っております。そのほかに、日曜日に愛農消費者の方を集めて、田植え体験とか稲刈り体験をしながら、交流をやっていました。そのうち会社が週休2日制になりまして、土曜日と日曜日休みで、休みの日が増えました。その中で自分たちも直接農業をやって、自分たちの食い物を作りたい食べ物を作りたいという消費者が現れました。農村では耕作放棄地がありまして、そこを提供して、うちの農機具を使って、一緒にやろうということで会が始まりました。この前に川があるんです。これ矢作川(やはぎがわ)と言うんですけど、矢作川沿いで自給を目的にした稲作中心の会なので「矢作川自給村稲穂の里」という名前をつけて、もう20年ぐらいになります。今28家族の方が来て、毎週農業をやっています。皆さんが集まってくると、この自給村の素材を使って食事が提供されます。その食事がおいしくて、食べるために自給村に入っているよ、と言われたのでびっくりしました。
それからもう一つはですね、空気のいいところだし、土に触って気持ちが落ち着くということを多くの方が言われました。その言葉を聞いて、あ、そうなんだって、常にそこで暮らしているとわからない我々が教えられました。有機農業で、きちっと田畑を管理をして、作っていることがいかに大切か、ということです。そういう体験を通じて、愛農高校の建学の精神の中にある、「土を愛する」という言葉が浮かんでくるんです。神を愛し、人を愛し、土を愛するという言葉が出てくるんです。その土を愛するってこういうことなんだな、百姓の、農家の、農業の神髄というものを学ばせていただきました。
愛農会の役員が終わった頃に愛農高校の理事をやってくれないかということになって理事をやっていました。小講堂というところで会議を行うのですが、そこに行くと片一方には「愛農会綱領」がかけてあって、もう片一方には「愛農高校の建学の精神」がかかっているんです。会議の度にそれを読むんです。何が書いてあるかというと、若き魂を愛農救国、救人類運動に生涯捧げる。生涯、だから、人生をかける人間を作りたい。この言葉は基本的に私は好きなんです。我々もやっぱりこうありたいというのが結論でしょうか。
「愛農歌集」の中に、僕の好きな 「愛農の旗の下に」という歌があるんです。その7番目にこういう文章があるんです。

7つの海の彼方から
土の同志が呼んでいる
行け荒波を乗り越えて
広い世界の隅々に
立てよ平和の旗、愛農旗
韓国の正農会と愛農会は交流を続けてきまして、いま30年くらいになるのかな。そこに今回はじめて中国の方が来られてました。それからもう一つは、愛農高校に正農会のメンバーの子どもたちだけではないんですけど、韓国から留学生が来るようになったんですね。さらにインドやバングラデシュから来たり、だいぶ国際的になってきました。世界の農民同士が手を結んで、ともに土と命と健康、地域、平和を守っていく、それこそが小谷先生が言われたように愛農運動だと思うんです。 ご清聴ありがとうございました。
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