「未来の足音」誕生秘話

校歌「未来の足音」の由来について(前編)

奥田 信夫

 私は本校の校歌「未来の足音」が大好きである。歌うたびに、歌詞の一つ一つの言葉に心打たれ、これまでの歩みを顧みるとともに、これからの人生を思わずにおれない。

ところが、この歌がどういう経緯で本校の校歌になったかを知る人はほとんどいない。創立当初の教職員はじめ関係者はほとんど亡くなられ、初期の卒業生に聞いてもほとんど覚えていないのが実情である。私の記憶も断片的で、全体を把握しているわけでないが、覚えている範囲で記録に残しておかないと永久に埋もれてしまうと思い、筆を執った次第である。

創立当初の校歌
本校が創立されたのは1964年(昭和39年)で、私は一期生の一人として入学した。当時校歌はまだ無く、入学式などの行事には校歌に代わるものとして「伊勢路も近き青山の」で始まる『愛農が丘の歌』が用いられていた。この歌は、当時行われていた愛農短期大学講座や花嫁大学講座の受講生向けに作られたもので、新しくできた高校の校歌にするには無理があった。そのことは小谷先生も理解されており、いずれ自分で作るつもりでおられたようで、そのことを口にされることもあった。当時使われていた「愛農歌集」には小谷先生が作詞された歌が4曲入っており、その延長線上に校歌を考えておられたようである。

しかし、先生は愛農高校の校長の重責を負いながら、和歌山の実家ではかなり大きな農業を営んでおられた。さらに愛農会の顧問、聖霊社代表の仕事もあり、校歌づくりに着手する余裕はなかったと思われる。

「未来の足音」の由来
最近、1971年発行の「愛農が丘」(PTA通信紙)第55号に小さな記事があることが分かったので紹介しておきたい。(これがおそらく「未来の足音」について書かれた唯一の文書と思われる)

「この『未来の足音』は、昭和39年、開校間もなくNHKテレビで全国に放送された愛農高校の番組に感動された福島県の方が寄せてくださったものです。当時はもちろん現在においても校歌の制定されていない本校で、校歌にかわるものとして入学式・卒業式など行事あるごとに愛唱されてきました。(百々)」

署名の百々とは、当時の音楽担当教諭・百々格(どうどう いたる)先生のことで、我われ一期生の担任を務められ、今もご健在で宮城県に住んでおられる。この文章によると、開校後8年目(女子一期生が入学時)を迎えてもまだ校歌はなかったという事になるが、いろいろな行事の度にこれが歌われてきたわけで、実質的には校歌扱いされていたと言ってよいであろう。これを手掛かりに、私の記憶も含めて校歌の由来について考えてみたい。

一期生が入学した6月頃、私立の新しい農学校ができたという事で、NHKテレビが一泊二日で取材にこられ、本校の学校生活の様子(授業・実習・寮生活など)が全国に放送された。(確か、「明るい農村」という朝の番組だったと思う)それをご覧になられた佐藤 政蔵さんという方が、「未来の足音」を作詞され、友人の荒 義剛さんという方が曲をつけて、手書きのまま本校に送ってこられた。

百々先生がそれに少し手を入れられたのがオリジナル曲である。さらに30年後、本校の音楽科教諭として赴任された大江 ダマリス先生によって四部の合唱曲に編曲されたものが、現在歌われている「未来の足音」である。  その後も長い間、作詞・作曲者お二人の消息は全く不明であった。

作詞・作曲者の消息をたずねる
今から15年ほど前、本校が50周年を迎えるにあたって、どうしてもお二人のことを知りたいと思い、インターネットで検索したことがある。するとどちらかの方が福島県教育委員会の指導主事をされていたという記事があった。(その時、本腰を入れてさらに調べればよかったが、多忙さに紛れてそれをしなかったことが、いまは悔やまれてならない。)

本年5月にそのことを思いだし、福島県教育委員会に佐藤・荒両氏の消息をたずねる手紙を出したところ、総務課の星さんという方から丁寧なお返事をいただくことができた。それによると、佐藤さんについては記録がなく確認できないが、「荒 義剛さんは相馬市立のいくつかの小中学校の校歌を作曲された」とあり、続けて次のように書いて下さった。「実は、私自身が高等学校の音楽科教員ですので、楽譜を興味深く拝見しました。「聴けよ未来の足音を」に向けての盛り上がりに力強さを感じるとともに、歌いやすいメロデイで、作曲者の温かさを感じました。先輩にこのような良い仕事をされた方がいたと思い心が熱くなりました。皆様に大切に歌い継いでいただければと思います。」

そこで今度は相馬市教育委員会に同様の手紙を出してお尋ねしたところ、志賀様から荒 義剛さんの詳しい経歴をお送りいただいた。その概要は以下のとおりである。

義剛さんは、相馬市山上地区出身で(1920年生)、昭和15年に現相馬高等学校を卒業され、武蔵野音大に進学された。卒業後は音楽教師として市内のいくつかの学校に勤められ、退職後はいわき市の短大の教授をされた。晩年は千葉に転居されたということである。したがって「未来の足音」を作曲されたのは44歳のころということになる。

荒 中様からの手紙
その手紙の最後に、義剛様の親族の方を紹介する文面がつけられていた。その方は、義剛様の甥にあたる荒 中(あら ただし)という方で、昨年まで日本弁護士連合会の会長職についておられた方ということである。そこで、荒 中様に本校の校歌ができたいきさつと義剛様への感謝の気持ちを手紙でお伝えした。お返事をいただけるとは思っていなかったが、折り返し次のようなお手紙と義剛様の著書「魔王異聞」をお送りくださった。その一部を紹介する。

「今回、叔父が作曲した楽曲が遠い三重の地において、校歌として関係者の方々に長い間歌い継がれてきたことをご教示いただき、大変驚くと同時に心よりうれしく思っております。」

「奥田様の母校である愛農学園農業高等学校ですが、実は私はこの学校名に聞き覚えがありました。私の愛読する内田 樹さんが著書のどこかで触れられている学校のように思われました。そこで今回読み直し、確認させていただいたところ、『日本習合論』」という著書において取り上げていることがわかりました。この本の「根源的に考えることを目標に掲げる教育機関」の項に取り上げられ、「人として正しく生きるとはどういうことか」を問う教育を実践している高校と著者から高く評価されている学校でした。このような崇高な理念を掲げ、これを実践してきた学校の校歌の作曲者として伯父がこれまでもこれからも名を残し、歌い継がれていくことに深い感銘を受け、感謝する次第です。」「伯父は常日頃から、「生きる」ということに厳しく向き合い、何事にも妥協を許さない確固とした信念をつらぬき、世の中に流されない、謙虚に真実を探求しようとしてきた伯父の生きる姿勢と、愛農学園農業高等学校が掲げる理念とこれを実践してきた活動には相通ずるものがあるように感じられます。」(以下略)

文中の内田 樹氏はこれまで 2回本校で講演をしてくださった方で、荒 中様がこの方を尊敬しておられ、すべての著書に目を通しておられることに驚くと同時に、何か愛農と通じる感性をお持ちの方と嬉しく思った次第です。

「未来の足音」への思い
最後に、私の校歌への思いを記して本稿を閉じたい。

「未来の足音」が本校の校歌になるに至った経緯を考えると、これは奇跡のような出来事と思わざるを得ない。もともとこの歌は校歌を意識して作られたものではないので、いわゆる普通の校歌らしくない。多くの校歌によく使われる自然や歴史、めざす人間像などの言葉は出てこない。農業高校であるにもかかわらず、農や食に関する言葉も使われていない。この詩に込められた思いは、「光・道・愛」というような哲学的あるいは宗教的な概念である。そのためか、この歌は聞く人に様々な思いをもたらしてくれる。それが多くの人に愛される理由の一つになっているのであろう。作詞された佐藤さんは、本校に来られた訳ではなく、テレビ番組を見ただけで、愛農教育の営みに「光・道・愛」を感じられたから、その感動を詩に託されたのではないだろうか。

私はこれまで数えきれないほどこの歌を歌ってきたが、この詩に込められた作詞者の思いに最近まで気づかなかった。この歌の主題「光・道・愛」は愛農教育の根幹をなすもので、そのことを直感的に感じ取って詩にされたとするなら驚くべきことである。その意味で、この歌は奇跡の歌と言ってもよいと思うのである。

もちろん、冒頭の「見よ世のはじめ光あり」は、聖書の冒頭「神は光あれと言われた。 すると光があった。」(創世記1章)から、また「光は道と共にあり」は「私は道であり真理である」(ヨハネによる福音書14章)から取られたものであろう。その他、「人の命に幸あれ」も「人みな人を愛す時」も聖書が語る指針を表したもので、作者は聖書に深く接しておられたと思われる。

以上、この歌の由来を愛農の皆様が知って下さり、今後も大事に歌い続けてほしいというのが私の願いである。

(追記 作詞者の佐藤 政蔵様の消息が不明であることが残念である。この記事によって、佐藤様のことが判るきっかけが得られれば望外のよろこびである。)

*写真は小講堂(中央)に掲げられている「未来の足音」の書 と その書を拡大・調整したものです

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